見出し画像

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(41)

〈前回のあらすじ〉
 直が遺した旅行券で静岡県の清水に行くことを打ち明けると、黒尾が同行を買って出た。なぜ同行するのかと尋ねても、「面白そうだから」と話をはぐらかす黒尾だったが、生まれてから福島を出たことがない諒にとっては間違いなく頼もしい伴だった。黒尾はすかさず行程を決めただけでなく、諒が不在の間の母親の面倒まで配慮してくれた。諒は少しずつ、黒尾がもう一人の兄のように感じ始めていた。

41・そんなセコいところまで、兄貴に似やがって

 直がいた港町に旅立つ三月の朝、僕が玄関でスニーカーの紐を結んでいると、背後の襖が僅かに開き、母親が青白い顔を覗かせた。

 僕は経本を食べて救急搬送されたあの一件以来、自宅で母親の顔を見ていなかったので、唐突な母親の歩み寄りに面食らった。

「直のところに、行くの?」

 正しくは直が住んでいたところに行くのだが、母親はそのような言い方をした。

「あぁ」

 僕はそう言って、この時になって母親がひとり取り残されることを恐れているのではないかと、不安になった。また、食材が底をつき、経本を飲み込む羽目になるのではないかという恐れだ。

「また独りにしてしまうけど、五日間だけだよ。その間の食材や水は、黒尾さんが手配してくれた。だから、行かせてくれないかな。何も言わずに僕らの前からいなくなってしまった直が、たった一つだけ僕らに残したメッセージなんだ。今、行かないと……」

 今、行かないと、僕はもう直の背中に追いつけないような気がしていた。だが、そう言葉にすることができず、僕は背後を振り返り、少しだけ開けた障子の隙間から覗く母親の顔を見つめた。

 僕と目が合うと、母親はそっと目を伏せたが、ただ一言、「大丈夫」とだけ言った。弱々しい声ではあったが、それはしっかりとした母親の意思の表明だった。

「行っていいの?」
「行ってちょうだい。そして……」

 長らく僕と会話をしていなかったからか、母親の舌がもつれた。だが母親は、旅立つ僕に伝えなければならないことを、必死に言葉にした。

「直を連れて帰って」

 そう言うと、母親は静かに襖を閉めた。

 約束していた時間に、黒尾が白いワンボックスカーで迎えに来た。僕は「行ってきます」と障子の向こうの母親に言い残して玄関を出たが、母親からの返事はなかった。

「さて、弥次さん喜多さんの東海道中膝栗毛と参りますか」

 僕がワンボックスカーの助手席に乗り込み、ドアを閉めると、黒尾がそう言いながらオートマチックのシフトレバーをドライブモードに引き込んだ。

「それって、助さん格さんじゃないんですか?」

 シートベルトを嵌めながら僕が真顔でそう言ったので、黒尾はあからさまに呆れてみせた。

「バカヤロー。助さん格さんは水戸黄門だろうが。弥次喜多は十返舎一九。ジッ・ペン・シャ・イッ・ク!」

 僕は弥次さんも喜多さんも十返舎一九も知らなかったことを恥じたが、同時にそういうことも少しずつ教えてくれる黒尾に、また僕は敬意を抱いた。

 かおりの軽自動車とは比較にならない柔らかく座り心地のいいシートに体が埋まっていく感覚の中で、僕は少しずつ黒尾との旅に胸を躍らせていた。

「基本的にはオレが運転するが、疲れてきたら交代してくれよ」
「言ってなかったですか?僕、運転免許、持ってないんです」
「はぁ?マジかよ!?」
「だって、僕にはマウンテンバイクがありますし、運転するにもうちにはもう車がありませんから」

 僕が丁重にそう返すと、信じられねぇとか、ダッセぇとか、行くのやめよっかなとか、あらゆる暴言を用いて悪態をついたが、そのうち、何かに思い当たったようで、黒尾は一人でくすくすと笑い始めた。

「まったく。やっぱり、兄弟なんだな」
「え?」
「そんなセコいところまで、兄貴に似やがって」

 そう言って黒尾は左手を僕の頭に伸ばし、愛犬を愛でるように、僕の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。

「やめてくださいよぉ」

 そうは言ったものの、今となっては、直の旧友だと自称する黒尾にそうされることが、僕は決して嫌ではなかった。

 ひきこもっていた母親に高価なミネラルウォーターを売りつけにきたときには、どうしようもない身勝手な男だと毛嫌いしていたが、僕がかおりにうつつを抜かしていたときに、母親の身辺の世話をし、いよいよ母親が餓死寸前に陥ったときも、まるで自分の母親の命に危険が迫っているかのように、親身になってくれた。それがただの顧客や同級生の母親に対する単なる親切なのだとしたら、かなり度を越していたと思う。

 黒尾は、ひきこもりの人間であろうと、世を捨てて孤独に浸っている人間であろうと、大金持ちであろうと、金銭的に貧しい人であろうと、分け隔てなく平等に扱う人間だった。僕には彼の言動がそのように映ったのだが、きっと黒尾は、損得など考えず、自然体でそのようにできる数少ない人間の一人だったと思う。憶測には過ぎないが、それは黒尾自身が身をもって孤独や悲しみと向き合ってきたからなんじゃないかと、僕はこの頃考えるようになっていた。

 カーステレオのラジオから、聞き覚えのあるロックミュージックが流れてきた。それは、かおりがお気に入りだと言っていたロックバンドのヒット曲だった。僕が何気なく口ずさむと、それにつられるように、黒尾も軽快に口ずさんだ。

〈生まれる前からわかっていた。君と出会うことも、そして、失うことも〉

 僕の初めての旅。少年から大人へ踏み出す、大きな一歩。その道連れは、死んだ兄の友人。

 竹五郎さんとマナティー(42)につづく……

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?