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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(5)

〈前回のあらすじ〉
 
直の実直さに応えようと慣れないパートに出た母親だったが、精神的に直に依存し、やがて社会に適応できなくなっていった。そんな中でも、諒は兄の直とよく語らった。直はことあるごとに諒に対し、「感性を磨け。研ぎ覚ませ」と伝えた。しかし、その直も、唐突にこの世を去ってしまった。

 5・墓地の女

 読経に没頭する母親が居座る居間に立ち入れない僕は、母親の存在を姿ではなく、声と気配で確認していた。

 日々、僕がやらなければならないことと言えば、外出をしなくなった母親のために食材や弁当を買いに行くことくらいだった。それ以外の持て余した時間は、図書館で脈略もなく借りてきた本を読み漁るほかは、ただ直の部屋でぼんやりと過ごしていた。そして、ときどき思い出したように父親と直の墓を参った。

 雨が道路に落ち、それが傾斜に従って路肩に集まり流れ、やがて側溝に落ちていくように、成り行きだけに任せて高校を卒業した僕は、やはりどこにも進学せず、どこにも就職をしなかった。

 教師や母親の体裁を壊してはいけないと気遣い、一応地元の情報処理専門学校を受験したが、誰でも受かると評されたその専門学校も、不合格となった。受験勉強に熱を注がなかったことも事実だが、答案用紙に一切の解答を記述しなかったのだから、落ちて然りだ。恐らく、先方の専門学校から、不謹慎な僕に対する抗議や忠告があったことだろう。結果的に周囲の人たちに心労をかけてしまったのだから、全く大人げないことをしてしまったと、僕は僅かながら反省した。だが、試験問題と答案用紙を目の当たりにし、試験開始の合図とともに一心不乱に試験に臨んでいる受験生たちの中に身を置くと、僕はその居心地の悪さに吐き気すら催し、額に脂汗を浮かべながら、一刻も早くそこから逃げ出したい気持ちでいた。だから、そうした愚行もやむを得なかった。

 彼らは何を求めているのだろう。

 この試験を乗り越えた先に虚無が待っているとは思わないのか。

 硬直してしまった僕の周りで答案用紙にカリカリと鉛筆を走らせる受験生を横目で見ながら、僕はそんなふうに考えていた。彼らがそれぞれの前に立ちはだかる進路という敵に対し、立ち向かえば立ち向かうほど、僕の心は冷めていった。

「馬鹿馬鹿しい」

 頭の中に棲むもう一人の自分がそう吐き捨てると、僕は鉛筆を答案用紙の上に置き、ただ静かに試験会場となっていた教室の窓から見える灰色の空を眺めていた。

 川の流れから小さな澱みに流れ着き、その渦の水面でくるくると回るばかりの木の葉のように、世間から取り残された僕は、父親と直の墓参りをすることで、責務と言うには大袈裟だが、気休めと言うには軽率な役割のようなものを、背負った気でいた。もしも、僕が死んでしまったら、恐らく正気を失ってしまった母親にも参られることもなくなり、本当の意味で家族が離散してしまう脅迫めいたものが、僕の足を墓地に向かわせていたのかもしれない。都合のいい話だが、墓参りすることで、僕は辛うじて世間と繋がっていられたような気でいた。渦巻く澱みから木の葉は逃れられないものの、決して川の流れとは切り離されていないように。

 死んでしまった父親も直も、僕と母親以外の誰からも見放されていたので、僕が墓苑を出入りしても、墓前で誰かと鉢合わせになることはなかった。母親は家の外に出るくらいなら、閻魔様が持っている邪悪な鋏で切り刻まれる方がましだと思っていただろうから、当然僕も墓参りに誘いはしなかった。

 僕は母親の奇妙な読経を耳の奥に残したまま家を出て、父親と直が眠る墓苑に自転車で赴いた。

 そして、秋も深まったその日、僕は彼らの墓の前で、忌まわしい人に遭遇した。

 墓苑を取り囲む広葉樹が落とした葉が、墓地周辺を巡るバイパスの騒音や工事現場の作業音を吸い取るのか、墓地は静かだった。僕を包む空気は、きりりと冷たく、直がいなくなった夏を、遠い過去のように思わせた。

僕は、メルトン素材の紺のピーコートを着て、ウールのマフラーを首に巻いていた。それは、直が残した数少ない衣類だった。僕はそれを勝手に譲り受けた。

 僕も直も身につけるものに頓着はなかったが、衣料品量販店の安物を漁るようにして脈略もない着こなしをする僕に反して、保有している点数は僅かながらも、直が持つその一点一点の衣類は、どれも上質なものだった。

 僕は自転車を墓苑の駐車場に停めると、ハンドルの前に取り付けた籠から質素な花束を取り、父親と直が眠る墓まで歩いた。

 駐車場から墓前にたどり着く間、他の参拝者や墓を守っている住職と顔を合わせることはなかった。だから、二人の月命日でもないその日に、父親と直の墓前にたたずむ人を見つけた時には、僕は肝を冷やした。

 その人は女性だった。直の知人にしては歳がずいぶん上に見えたが、父親の知人だとしてもずいぶん釣り合わないように見えた。

 キャメル色のウールのハーフコートを着て、ゲージの荒い白色のマフラーを首に巻いたその人は、静かに彼らの墓前に立っていた。左手にはコートと似た色の、艶のある小さなバッグを持っていた。

 彼女は、僕の気配を感じ取ると、禁じられている媚薬の密造を覗かれてしまった駆け出しの魔女のように、身をこわばらせた。僕は花束を手に提げたまま、その人に向かって反射的に小さな会釈をした。すると、彼女もゆっくりと僕に向き直り、深くお辞儀をして見せた。

 家にいても家族であるはずの母親の姿をまともに見たことがなかった僕が日頃会う人といえば、日用品を買う時に会うコンビニエンスストアの店員や、食材を買う時に会うスーパーマーケットのレジ係くらいのものだった。だから、それ以外の人と対峙するのは、随分と久しぶりのことだった。僕は内心で酷く動揺していたので、無意識的に踵を返して、彼女から離れようとしてしまったのだが、その人が静かに顔を上げると、僕は彼女の穏やかな眼差しに釘付けになってしまった。

 女性が男性に向けて放つ色気とは違う魅惑的な色合いが、その瞳には帯びていた。僕はそれに引き寄せられるように、ゆっくりとした足取りで、彼女に近づいていった。

「父のお知り合いの方ですか。それとも……」

 僕は見知らぬ女性と自分との間に、墓石一区画分ほどの距離をおいて立ち止まり、そのまま、直の知り合い知り合いかもしれない含みを持たせて、尋ねた。

「お父様に、お世話になっていました」

 彼女はそう言って、改めて僕に向かって深々と頭を下げた。

 僕は、彼女がどこでどのように父親の世話になっていたのかを明言しなかったことに、率直な違和感を覚えた。

 父親の異性の交遊など僕が知る由もなかったが、仕事と家庭以外の父親の顔を僕は知らないので、詮索を始めれば際限がなかった。だが、それと同時に、僕の心の中には、今、目の前にいる女性が、父親と心中を図り、不幸にも生き残ってしまった当事者なのではないかと言う疑念が湧き上がり、それを抑えられないでいた。だから、到底まともに彼女を直視することができなかった。

「では、原発で?」

 僕は彼女が父親と同じ職場の人間なのか、勘繰った。

「ええ、かつては」

 彼女は、僕の勘繰りを予測していたかのように、そう答えた。

 その時、不意に冷たい秋風が僕とその女性との間を吹き抜けた。

 僕は眼を細めて風を防いだつもりだったが、冷気が目に沁みて、目尻に少し涙が滲んだ。女性は次の言葉を吐き出そうとしたところで、開いた口の中に冷気が飛び込み、その冷たさに驚いて、身体を硬直させていた。

 女性は気道に溜めて温めた空気をようやく肺に送り、しばらくしてから一息吐くと、手に持っていたバッグの中から名刺入れを取り出し、そこから一枚の名刺を引き抜いた。その一連の動作は滑らかで、そうした動きが彼女の日常に溶け込んでいることを示唆していた。

 ただ、彼女は取り出したその名刺に目を落とすと、しばらく動きを止めた。それを僕に手渡そうかどうか、その段になって迷っているように思われた。

 やがて彼女は小さな決意をし、名刺を僕に差し出した。僕は一歩踏み出して彼女に歩み寄り、その小さな紙片を受け取った。

『パブ・カレイドスコープ。結子』

 名刺に記された活字を僕が目で追っていると、「小さなスナックです。名前は本名です。ただ、まもなく、そのお店もしまうのですけれど」と彼女が補足した。

 かつては原発で働き、父親の世話になっていた女性が、水商売に鞍替えしていたことから、僕は「結子」と名乗った女性と父親との関係を、際限なく空想した。

「とにかく、ありがとうございます」

 僕が名刺から顔を上げて、目の前の彼女に向かってそう言うと、「結子」という名の女性は僕の視線を捕まえて、つぶらな目を見開いた。

「えっ?」
「親類も職場の方も、父親を見限っていましたから、どなたであろうと、こうして墓参りをしてくれる方がいてくれたことは、父親にとって嬉しいことだったでしょう」
「ご家族の方と鉢合わせしないように、主に平日に進さんを参らせていただいてました」

 進とは父親の名だ。だが、父親のことをそう呼ぶ人は少ない。短絡的だとは知りつつも、僕は彼女と父親との関係が「知人」という枠には収まりそうにない親密なものであったのだろうと憶測した。それは、彼女こそが父親を死へ導いた張本人であるという、限りなく確信に近い先入観に裏付けされていた。

 ところが、僕は思いの外、冷静だった。

 今、僕の目の前にいる女性は、僕の父親を死に追いやり、その挙句に自分だけが生き長らえた薄情な女だった。父親の死によって、直は闇を背負い、やがて現世に別れを告げた。母親は父親や直のように死という終幕さえも選べず、生ける屍のようになってしまった。僕の家族はバラバラになり、家庭と呼べるような様相はすっかり崩れてしまっていた。想像の域を超えていないことを承知しながらも、僕は目の前にいる女性を憎んたり恨んだりしてもよさそうなものだった。だが、僕はそうした感情を芽生えさせる前に、今もなお、僕らの家庭とかかわり続けようとする彼女の心の根っこにあるものを、覗いてみたい気持ちになっていた。もちろん、それ以前に、彼女が父親と心中した相手であることを、何らかの方法で確かめなければならなかったが。

「息子さんが二人いることは聞いていましたが、こんな立派な男性だとは思いもよりませんでした」

 その女性は、頬にかかった髪を細い指の先でこめかみへと導きながら、そう言った。

「全然立派などではありません。兄は勉強や仕事がよく出来ましたが、僕は彼と同じような進路を歩めませんでした。高校を卒業して半年が経ちましたが、平日も休日も、特にやらなければならないことなどないんです」
「浪人なのですか?」
「それならまだいい」僕は自嘲するように、短く鼻息を漏らした。「いわゆる、ニートです」

 僕があまりにも堂々とニートと口にしたから、彼女は顔を俯かせたまま上目遣いに僕を見て、少し笑った。

 彼女は名刺で名を「結子」と明かしたことに加えて、姓は「柳瀬」であると僕に伝えた。

 僕が「ヤナセユウコ」と呟くと、「ユウコではなく、ユイコと読みます」と彼女は訂正した。そして、小さな身体に吹き付ける秋風に身を強張らせながら、彼女は少しずつ自分のことを語り始めた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(6)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

 

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