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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(35)

〈前回のあらすじ〉
 直の死を知らされて亡霊のように生気を失った柳瀬結子を見送った僕は、竹さんとマナティーたちへの餌の準備をしながら、人間の強欲や欺瞞について考えた。イワシもカモメもマナティーも、命というものに真摯に向き合っていた。純朴な竹さんもまた、ややこしい現実社会に飲まれながらも、本当に大切なことや正しい豊かさを本能的に知っていたんだと思う。諒は自分が人生の岐路に立たされていることを、あらためて実感した。

35・僕らは若い。そして、まだ自分が何者かなんて、よくわかっていない

 二月の終わり、水族館のつがいのラッコに、可愛いオスの赤ちゃんが生まれた。それはラッコたちにとっても喜ばしい出来事だったが、それ以上に、水族館にとっても目出度い出来事となった。ラッコに限らず新たな命の誕生は、客を飽きさせないいい呼び物になるからだ。館長や高木などの上層部は、すでに取らぬ狸の皮算用を始めて、すっかり浮足立っていた。

 高木は早速ラッコの赤ちゃんの名前を公募することを報道発表した。職員たちは館内での通達よりも先に、新聞紙面で赤ちゃんの名前を公募することを知った。高木の仕事の仕方は、いつもそんな風にワンマンだった。幸い、ベーブの伴侶としてやってきたピッピの名を公募して決めた前例があったので、職員たちは高木に対する不平を漏らしつつも、特に慌てることなくその対応に取り掛かれた。

 それから連日、高木の元へ印刷会社のデザイナーが訪れ、観光協会や図書館などで配布するチラシの草案を練っていた。企画会議などを開かずに、高木の独断で事業が進められるのは、この水族館の常のようだった。勝手に始めて、勝手に終えてくれればいいが、突如明らかになった高木の不始末の尻拭いが他の職員に回ってくることは決して珍しいことではなかった。そのたびにに事務所は険悪な雰囲気になり、職員たちは辟易としたという。

 かおりにいたっては、高木にとって使い勝手がよかったこともあって、通常の事務仕事に加えて、高木が持ち込んだ仕事の助手のような役割まで背負わされていた。それを見かねた他の職員が、高木に気づかれないように、かおりの通常業務の手助けをした。

 公募の先にある選考の段取りも整っていないうちから、高木の先走りですでに館内にラッコの赤ちゃんの名前を募集する応募箱を設置していたので、水族館はお祭り騒ぎのように賑やかになり、僕らの仕事も否応なく煩雑になっていった。

 飼育棟の仕事で手が空くと、僕もかおりの手助けに加わった。

 僕はパソコンに疎かったので、膨大な量の応募の中から、郵便で届いたものを集約した。メールで寄せられたラッコの赤ちゃんの名前は、かおりが集約した。

 やがて報道発表に続いて、出来上がった公募のチラシが配布されると、僕が扱う郵便の数は倍増した。水族館の売店の脇に設けられた応募箱の集約を含めると、かなりの数の応募をまとめなければならず、それ以来、定時に仕事を終えられなくなっていった。

 以前、ピッピの命名がされたときには、まだかおりは水族館で働いていなかったどころか、まだ高校生で学校にも在席していた。高木もまだ下働きの身だったので、公募から決定までの一連の経緯を知らなかった。応募された名前の集約とその総数を出すのは時間と労力さえ注ぎこめばどうにかなった。しかし、選考で一名を決め、その方に目録を渡す話になると、どのような選考基準で、どのような品物をどのように渡すのか、見当がつかなかった。その頃すでに水族館で働いていた竹さんが唯一の生き証人だったが、魚や海獣たちの飼育に専念している竹さんが、そうした経緯を知るはずもなかった。

 高木はそうした難航する行程を人任せにして、自分の事務机でパソコンに向かい、決まったラッコの赤ちゃんの名前を発表する式典の段取りに、すでに取り掛かっていた。

「こういうのって、ご丁寧に集約などしなくても、こっちで名前を決めちゃえばいいんじゃないの?厳密に選考したかどうかなんて、向こうにはわからないわけだし」

 公募の集約で逼迫している職員たちを尻目に無神経にそう言って、高木はすでに職員の士気に水を差していた。

 職員たちはそうした高木の図々しくて空気の読めないところが鼻についていたのだが、遠回しに彼の行動を煙たがっても、高木はカエルの面になんとやらで、部下たちの混乱を気にも留めなかった。職員たちもいよいよ呆れて、高木に何も進言しなくなった。上司である館長や部長も、高木が前館長の息がかかった人物であることに頭を悩まし、結局、ずっと野放しの状態が続いていた。そういうパワーゲームを傍観していると、いよいよ人間という生き物は、浅はかで愚かだと呆れるしかなかった。

 僕は時折飼育棟に戻って竹さんの仕事を手伝った。そして、一段落すれば事務所に行って、かおりと共に応募者のデータをまとめた。日頃からかおりと一緒に仕事をすることがなかったから、かおりと言葉を交わしながら雑務をこなすのは楽しかった。

 だが、楽しかったのはそれだけではない。

 昨年末に初めてかおりと身体を重ねてから、僕とかおりは一度もセックスをしていなかった。新年を迎えてから、職場でもかおりはどこかよそよそしかったので、あれはかおりの一時の気の迷いで、もう二度と僕はかおりの身体に触れることができないものと諦めかけていた。そのうち、高木からかおりにかかわる卑しい協定を示される羽目になった。その頃には柳瀬結子と直との関係が明らかになり、僕自身も精神的に疲弊していたので、かおりとのことは一夜の夢として打ち消すつもりでいた。

 そんなとき、残業が嵩んで、僕とかおりは事務室に二人きりになった。どことなく居心地の悪さを感じていた僕に、不意にかおりが語りかけてきた。

「ごめんね」

 僕は応接用のテーブルに山積みになった応募用紙に没頭していて、蚊が鳴くように力ないかおりの声を危うく聞き逃すところだった。

「全然大丈夫だよ。漠然とだけど、応募のピークは越えたような気がしているし」

 僕は作業の手を止めて、背後の事務机でパソコンに向かっているかおりを振り返った。僕はてっきり自分の仕事を遅くまで手伝っている僕を労ってかおりがそう言ったのだと思い込んでいたが、かおりの真意はそうではなかったようだ。

「違う」
「えっ?」

 僕は作業をする手を止めて、かおりを見つめた。かおりは、約束を破っておやつの時間の前につまみ食いをしてしまったことを打ち明ける少女のように、もじもじしながら上目遣いに僕を見た。

「わたしのわがままで」
「わがまま?」

 かおりは席を立ち、事務机の島を回り込んで、僕が座っている応接用のソファに近づいてきた。ふっくらとした容姿には変わりはなかったが、煩雑な毎日に疲弊しているのだということが、輝きを薄れさせた瞳から見受けられた。

 かおりは僕が座っている三人掛けの布張りのソファの背を通り過ぎ、僕の右側に腰掛けようとしたが肘掛けをうまく避けることができず、どさりと大きな尻を座面に落とすように僕に向かってなだれ込んできた。僕はかおりの身体を受け止め、その肉質の柔らかさから年末の夜の出来事を、鮮明に思い返した。

「わたし、まことくんとは、きちんと恋愛をしたい」

 思いがけないかおりからの告白だったが、僕の思考は冷めていた。無神経で自己中心的な高木が、僕に対してかおりの所有権を共有するような提案をしてきたように、恐らくかおりに対しても、高木は僕の名をあからさまに挙げて、歪な愛人関係の修正を持ちかけたに違いない。かおりの瞳から生気が失われたのは、決して煩雑な毎日に疲弊していたことばかりが原因ではないと、僕は直感的に感じていた。

「僕だって、そう思ってる」
  
 自分でも驚くほど、率直な言葉が零れた。もしかしたら、一途に直を思い続けた柳瀬結子に会ったことが、僕の背中を押してくれたのかもしれなかった。

「ほんとに?」
「ほんとさ」
「こんなわがままなわたしでも?」
「かおりは、わがままなんかじゃないさ」
「どうしてそう言えるの?」

 たぶん、かおりは自分の意思ではどうにも抗えない依存症を「わがまま」と置き換えていたのだと思う。そのことで、高木を巻き込み、僕に居心地の悪い思いをさせたことをかおりは謝罪していたのだと、僕は考えていた。

「僕らは若い。そして、まだ自分が何者かなんて、よくわかっていない」
「うん」
「だからね、もっと自由でいいと思うんだ。親とか親戚とか近所の目とか社会のルールとか、そういうものに僕らはあまり囚われてはいけないと思う。イワシやカモメのように」
「イワシ?カモメ?」

 僕の漠然とした言葉に首を傾げながら、かおりはそっと僕の手を取り、それを包み込んだ。

 それから、僕らは何も語らなかった。ただ、静かに過ぎゆく冬の夜の時間を、互いに肌で感じていた。

 時間にしたら十分か十五分ほどの時が過ぎた頃、おもむろにかおりが立ち上がり、握っていた僕の手を絡まっていた縄を慎重に解くようにゆっくりと離してから、事務所のドアに向かって歩いていった。僕はその後ろ姿を黙って見つめていたが、かおりがドアに鍵をかけ、壁のスイッチに手を伸ばして電灯を消すと、僕はかおりがこれから何をしようとしているのか、察した。そしてそれは、僕がその時、心から欲していた行為でもあったことに、胸を高鳴らせた。

 その夜を境に、僕らは毎日のように、誰もいなくなった事務室でどちらかが音を上げるまで、手を変え品を変え、精の放出に励んだ。一枚の壁を隔てて、当直の職員が眠っていることも、僕らの欲情を更に掻き立てた。もっとも、セックスに未熟な僕はかおりのリードに任せて、ただ彼女の要求に応えるばかりだったけれど。

 もしかしたら僕らの恋愛は、世の中の同年代の連中が経験する類の恋愛とは異質のものだったかもしれない。デートをしたり、甘い言葉を囁いたりするより、セックスに没頭するばかりだったのだから、それは恋でも愛でもないと嘲笑う者もいたかもしれない。それでも、僕もかおりも身体を重ね、繋がることで心が通じ合っているのだと実感できていた。それが僕らの幸せだった。

 高木はかおりがセックスに依存する病気だと言っていたが、僕は決してそうは思わなかった。

 僕自身もかおりの身体に溺れていたこともあったが、自分の妻とも絆を結べなかった父親や、自分の恋人を置き去りにして先立ってしまった直に比べたら、僕はまだ誰かと心を繋ぐことができていると自負することができていた。だから、決してかおりも、かおりに呼応する僕も、決して病気などとは思わなかった。

 今までアルバイトを終えれば、ただ自分と母親のための夕食の食材を買って、まっすぐ家に帰るだけだった生活が、そこから一変した。もちろん、ラッコの赤ちゃんの命名に関する雑務にもやりがいはあったが、かおりとのセックスも僕が僕であるために欠かせない要素になりつつあった。すると、僕の心の中に居座っていた母親の存在が、次第に影を薄くしていった。

 すぐ手の届くところにかおりという大切で壊れやすい宝石があるというのに、どうして僕に微塵も関心を寄せない孤独な宗教家の心配をしなければならないのか、僕は次第に疑問をいだき始めていた。

 柳瀬結子との出会いと別れで、自分が人生の岐路に立たされていることを自覚した僕は、次第にかおりに傾いた軌道を走りながら、遠ざかるもう一つの軌道を見送り、様々な言い訳を並べた。

 人嫌いの母親だって、さすがに腹が減れば自分でどうにかするだろう。いや、そろそろ自分でどうにかしてもらわなければ困る。僕が社会に飛び出したように、母親もそろそろ父親や直の呪縛を解くべきだと、僕は自分に言い聞かせた。

 だが、誰しも頭上に不遇の星が光るのは、往々にしてそうした傲慢によって盲目になっているときだ。

 合戦に勝ち続けていた武将が参謀に寝返られるときも、業績を伸ばしてきた企業が些細なリコールを軽視して株価を下げるときも、必ずその兆しはあったはずだ。だが、人々は虚栄や慢心に陶酔することで、危機を察知する目を霞ませてしまう。僕もまた同じように、かおりとの逢瀬に溺れることで、背後に忍び寄っていた危機に気づかないまま、奈落へ向かうレールの上を疾走していた。

 ある夜、僕らはその日の仕事に一区切りをつけて、事務所を出た。そして、手を取り合って、館内の中央にある大水槽の前に立った。

「きれいね」
「ああ」

 水族館で働き始めて、もう見飽きたはずの光景だったのに、僅かな白い光に透かされた水槽の中の小さな宇宙は、本当に美しく、荘厳だった。

「ここで、かおりと初めて会った」
「うん」

 暗闇の中、僕の肩の下でかおりがこちらを見上げたのがわかった。だが、僕は大水槽の中を優雅に泳ぐマダラトビエイの行方に目を釘付けにした。

「若き男が一人で棒立ちになって水槽を眺めていたから、薄気味悪いと思っただろ?」

 僕がそう言うと、かおりは「正直なところを言うとね……」とわざと口籠り、「そのとおりなのよ」と言って、僕をからかった。

 僕はかおりに向き直り、その小さな体躯を両手で捕まえようとしたが、キャッキャと弾けるように笑いながらかおりが僕から逃げた。ようやく暗闇の中でかおりを捕まえると、僕は小さなかおりを背後から両手で包み込んだ。

「竹さんと初めて会ったのも、あの頃だった。コンビニの前で高校生たちに金を奪われていたというのに、遠縁の甥たちにお年玉をあげるみたいにニコニコしていた。おかしな人がいるもんだと思ったよ」
「知ってる。私も、そういう光景を何度も見たもん」

 かおりは僕の腕の中に、すっかりその身を預けていた。

「でも、それでいいと思うの。竹さんがいいなら、それでいい」
「オレも、そう思う」

 そう言って、僕は腕の中のかおりを見下ろした。すると、かおりも僕に向き直って、僕を見上げた。そして僕らは、どちらからともなく、口づけを交わした。

 それから僕らは、そのまま大水槽の前のベンチに倒れ込み、互いに貪るように衣服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になって、身体を重ねた。

 時折かおりが漏らす喘ぎ声が、高い天井に反響した。果たして厚いアクリル板の向こう側にいる魚たちには、裸で抱き合う僕らがどのように見えていただろう。願わくば、彼らと同じように、僕らも生命感に溢れた、ただの原始的な生き物と認めてくれたらいいが。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(36)につづく……

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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