見出し画像

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(40)

〈前回のあらすじ〉
 館長の配慮で直が辞退した旅行券は、実弟である諒が受け継いだ。諒は、家族の中でも孤立し、すべてのことを自分で決め、決めたことを必ず実現するという強迫観念の中で生きた直のことを思った。直が何を抱え、何を守り、何を伝えようとしていたのか、直が大学生活を送った静岡県の清水に行けば、何かわかるような気がして、諒は水族館に勤めて初めて休暇を申請した。

40・建物があって、人がいて、ところどころに川が流れている。ここと大して変わらないさ

 僕は、僕の住む福島県から遠く離れた静岡県の清水というところへ行こうと思っていた。

 直が大学生になったとき、まだ小学生の高学年だった僕は、直の選んだ大学が駿河湾の港町にあるということくらいしか知らなかった。そこには天女の羽衣伝説があるということや、遠くには日本で一番高い山である富士山を仰ぐことができるということを、家を離れようとする直が自慢げに教えてくれた。

 直が大学生活を終えるまで、僕が大学生だった直を訪ねることはなかった。だから、僕は直が大学生であった確証を、何一つ持っていなかった。かすかに大学に行っていたことを醸していたのは、地元の福島に戻って原発に就職したときに、父親が直を形容する言葉として、「ダイソツ」と頻繁に口にしていたことぐらいだった。

 僕に何一つ大学生であった形跡を残さなかったというのに、直は家族に何も知らせず、地元の水族館に新しく仲間入りしたマナティーの命名に携わった。そうした直の行動の真意が、僕には全く掴めなかった。
 
 父親の希望を蹴ってまで海洋生物学を志望したのは、もしや海洋生物だけでなく水族館にただならぬ関心があったからではないか。そして、大学卒業が間近になると父親と同じ原発へ就職することに現実味が帯びてきて、直は自分の志に封印をするのと引き換えに、最後に何かしらの足跡を水族館に残そうとしたのではないだろうか。それが、メスのマナティーの命名だった。

 直のベッドの上でぐるぐると答えの出ない思案を続けた末に僕が辿り着いたのは、せいぜいそんな推察でしかなかった。

 応募したマナティーの名前が採用されるなどとは思いもよらなかった直は、命名の権利は受けつつも、副賞の旅行券の受理は辞退した。そもそも旅行券を手に入れることが目的ではなかったのだから、当然だ。しかし、奇しくもその旅行券を、歳の離れた弟の僕が受け取ることになった。直の本意はどうであれ、その旅行券は直から僕への置き土産のように思えてならなかった。直が志を貫こうと苦悶していた頃と同じ年齢に差し掛かった僕が、その旅行券でどの扉を開くのか、きっと空の上から直が試そうとしていたのだろう。そう思ったとき、自ずと旅の行き先は、決まった。

 我が家に『金環水』の納品に来た黒尾に、その意思を語るともなく語ると、黒尾が即座に同行を申し出てきた。

「案外、五万円なんて、すぐになくなっちまうものさ。福島から静岡まで行くのなら大半を電車賃で使っちまう。あとはセコいビジネスホテルに泊まるしかないよな。オレの車で行けばガソリン代を自腹で折半しても、旅行券を贅沢な宿泊に使える。もしもそれで足りなきゃ、車で寝泊まりだってできるじゃないか」
「でも、黒尾さんには仕事があるじゃないですか」
「おいおい、伊達にオレは代表取締役の看板を背負ってるわけじゃないんだぜ」
 
 そう言って黒尾は玄関に腰掛けた僕に身を寄せ、肩を抱いた。

「オレは事業主だ。オーケストラでいえば指揮者だが、実はオーケストラにはコンサートマスターってのがいてな、大体第一バイオリンのことなんだが、各々の奏者は指揮も見つつ、コンサートマスターの弓の動きも見てるんだ」
「はぁ……」
「だから、指揮者がふざけた指揮をしても、指揮をやめてしまったとしても、コンサートマスターがいる限り、演奏はよどみなく続く」
「つまり……」
「あ〜、勘の悪いやつだな。つまりな、オレがいなくても、オレの穴埋めをする有能な人材がうちの会社にはいるってことだよ」

 我が家に納品に来るのは決まって黒尾一人だった。その点については、ずっと僕は不審に思っていた。

 代表取締役が自ら配達に出てくるなんて、よほどの零細企業なのだと、僕は疑っていた。もっと言ってしまえば、黒尾は口が達者なだけで、本当は下請けの更に下請けで、会社の実態もあるのかないのか疑わしかった。

 ただ、高価なスーツや丁寧に磨かれた革靴、過度なドレスアップを施した白いワンボックスカーなどで、黒尾がそれなりの収入を得ているのだと察することができた。だから、最後の最後まで疑い切ることができなかった。

 それに、母親が餓死寸前になって病院に運ばれたときには、緊急事態であるにもかかわらず、母親の救出から回復まで、ずっと見届けてくれた。もしも、どこかの会社に雇われている身であれば、あの事態にあれほど柔軟に対応できなかっただろう。

「大きな勘違いをしているようだが、オレが水を配達しているのは、諒の家だけだ。直のお母さんからの注文だから、直の同級生であるオレが水を運ぶ。それ以外の顧客は、配達専門の業者に委託している。だから、オレがお前と旅に出ている間は、その業者がお母さんの水を補充する。ユー・アンダスタァン?」

 黒尾にそう言われてしまえば、僕に返す言葉はなかった。何しろ僕は、社会という大きな機械の歯車になってから、まだ一年も経っていないのだから。

「でも、なんで黒尾さんが同行してくれるんですか?」
「さあな、オレにもよくわからん」

 そう言って、黒尾は僕の肩から手を離し、複写の納品伝票に納めたミネラルウォーターの個数を書き入れながら、ニヤニヤと笑った。

「なんだか面白そうだから。そんな理由じゃ、だめか?」

 黒尾はノック式のボールポイントペンのペン先を一つノックして収めると、それをジャケットの内ポケットに収め、記載が済んだ伝票を伝票帳から素早く切り取り、複写になっていた納品書と請求書を僕に向けて差し出した。

「僕は構いません。むしろ、そうしていただいたほうが……」
「ありがたいだろ?」

 黒尾はそれなら話は決まったと言わんばかりに、すぐさま静岡へ向かう行程の相談を投げかけてきた。僕はまだ漠然と静岡県に行くことだけしか決めていなかったので、矢継ぎ早に黒尾に詰め寄られると、応えに窮してしまった。すると、黒尾は独り言をぶつぶつと唱えて、あっという間に旅行のプランを作り上げてしまった。福島県と静岡県の位置関係や距離感、道路事情やその道中にある郷土料理などに関して、とにかく僕には知識がなかった。だから、黒尾が作り上げたプランに従うことが賢明のように思えた。

「休暇は五日間なので、その間のお母さんの食事に必要な食材は、買い置きしておきます」
「それじゃあ食材が傷んじまうだろ。まさか五日間、お母さんにインスタントラーメンやレトルトカレーを食べさせるつもりか?それに帰りが二三日伸びることも考慮しておかないと」
「でも、そうするしか……」
「じゃあ、水の配達のついでに、食材も持たせるよう手配しておこう」
「えっ!?そんなことできるんですか?」

 僕が目を丸くしてそう言うと、黒尾が僕の胸を指先でつつきながら「だ〜か〜ら〜」と言い、おもむろに三和土の上に立ち上がり、大袈裟にスーツの裾を翻しながら、タクトを振る真似をしてみせた。

「オレを誰だと思ってんだ?」

 直を失ってしまった僕は、新しいもう一人の兄ができたような頼もしい気持ちに満たされていた。

「僕は静岡県どころか、東京にも行ったことがなくて」
「そう心配するな。建物があって、人がいて、ところどころに川が流れている。ここと大して変わらないさ」
「そんなものですかね」
「そんなものさ〜」

 バリトン歌手の真似をしておどけてみせた黒尾は、面白いおもちゃを見つけた子供のように、いつまでも見えないタクトを振り続けていた。

竹五郎さんとマナティー(41)につづく……

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?