竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(epilogue)
〈前回のあらすじ〉
敬光学園にやってきたフランス車の女は、黒尾からの会社を引き継いだ取締役だった。彼女は黒尾から届いた一冊の本を諒に手渡した。それは海に身を投げようとした柳瀬結子が持っていた直の本だった。それを見たかおりは、直のことを心の温かい人だと言った。
エピローグ・鈍感は鈍感なりに、愚直に生きるしかない
それからかおりは、しばらくその紙片を持ったまま、何かを思案していた。
「どうした?」
「ううん」
僕が俯いたかおりの顔を覗き込むと、かおりは口角を上げて笑みを作り、ゆっくりと頭を振った。何か言いたげなのを思いとどまっているようなフシを僕が訝っているうちに、かおりは僕に本をつき返し、その場を離れようとした。
「おいっ」
僕が呼び止めるとかおりは立ち止まり、ゆっくりと僕を振り返った。そして、ルーレットに落とされた白い球があちこちに跳ね飛ばされた末に目当ての番号の穴に落ちるように、目まぐるしい迷いのあとに強い決意を得て、真っ直ぐに僕を見た。
「私もね」
「え?」
僕はいつになく真摯なかおりの眼差しを受け止め、身を引き締めた。
「諒くんに、メッセージがあるの」
かおりの微笑みはどこかに陰があり、どこかに悪戯な心が隠れていた。かおりは、ふと視線を足元に落とし、木の葉のような小さな手で、くびれのないお腹を撫でた。
「なんだよ」
「好きよ」かおりは再び顔を上げて、僕にそう言った。「今まで、ちゃんと言ったことなかったよね」
思いがけないかおりの言葉を受けて、僕は氷の彫像にでもなってしまったかのように、放心し、その場に立ち尽くした。
それはとても不思議な感覚だった。
無重力の宇宙空間を漂流しているような、あるいはクラゲに生まれ変わって穏やかな海流に身を任せているような、ふわふわとした心地よい浮遊感に、僕は包まれていた。
「そんなこと……」
(そんなこと、知ってるさ)。僕は心の中で、呟いていた。
高木が絡んだややこしい関係から始まった僕らは、清水へ向かう途中で言い争い、一度離れた。しかし、離れたことによって互いが自分の心の欠けた部分を補う大切な存在なのだと、気づくことができた。僕は三保の海岸でかおりに再会したとき、彼女を慕う気持ちを抑えきれず涙を流し、宿泊した民宿の娘である加奈子に、かおりの心も確かめず「僕の恋人」と呼んだ。
「諒くんが私のことをどう思っているのかは、いつか聞かせてね。今は、私が諒くんを好きってだけでいいの」
そう言って、かおりは踵を返し、竹さんがいる屋台の方へ走っていってしまった。
(だからお前は鈍感だっていうんだよ。バカがつくほどのな)
竹さんを救い出すために一人で水族館に向かおうとしていた黒尾が、そう僕を罵った。かおりが清水への旅についてきた理由について、僕の頭の中では様々な憶測が渦巻いていたが、黒尾には曖昧な返事しかできなかった。
直の死を知った竹さんが取り乱したことも理由の一つだっただろうが、父親に殴られて家を離れたかったこともかおりの動機の一つと考えられた。ただ、僕には何故かおりが父親に殴られたのかまでは、答えを見つけることができなかった。その中でも、かおりがよほどの覚悟を持って、僕と黒尾の旅に便乗したのだということは、少なくとも理解していたつもりだった。
僕は汚れた軍手をジーンズの尻のポケットに突っ込み、片手にオレンジ色の紙袋をぶら下げて、かおりのあとを追うように、屋台に向かって歩き出した。
仮設住宅への入居が決まったり、県外に居を移す人たちが次々と敬光学園を出ていった。残された被災者たちは大所帯の家族のように、互いを支え合い、ささやかな出来事にも幸せを見つけ出せるようになっていた。日毎に暖かくなった風が講堂に吹き込むと、まるで僕らの命を洗ってくれているように心地よかった。
「直……」
(ん?)
僕は、僕の中にいる直の魂に語りかけた。
「僕は、生きていくよ。かおりとともに」
(そう、決めたんだな)
「うん。大袈裟な言い方かもしれないけど、この一年で僕は生きることの過酷さと素晴らしさを知ることができたように思う。願わくば、今の僕を直にも見てほしかった」
(あぁ、ここから見ていたよ。結子だけじゃなくて、お前はお母さんも救ってくれた)
「でも、まだ僕には守らなければいけない人たちがいる」
(大丈夫。お前なら、できるよ。それに、オレはいつでもお前を見ているから)
直はそう言うと、すうっと僕の身体から抜け、細い雲がたなびく福島の天空に昇っていった。それからもう僕の心に直の声が届くことはなかった。
鈍感は鈍感なりに、愚直に生きるしかない。だから僕は、かおりが抱えた問題がどのようなものであれ、その拙い覚悟をともに受け入れ、かおりを守っていかなければならないと、五月の空を見上げながら、決意していた。
すると、遠くで僕を呼ぶ親しい人の声が聞こえた。その声がする方を見ると、両手にヘラを持ったまま、身体をひねって僕を呼んでいる竹さんが見えた。正午を迎え、被災者の食事を配る手が足りないらしい。
僕は、竹さんに向かって手を上げて応え、水道で手を洗い、屋台に向かって駆けていった。
屋台に駆けつけると、そこには忙しそうに焼きそばや握り飯を配るかおりがいた。僕らは互いの視線を合わせ、微笑み合った。そして、それを見ていた竹さんも、嬉しそうに笑っていた。
(了)
〈あとがき〉
長い間お読み下さり、ありがとうございました。
本作は今から三十年前に友人とのふとした会話から構想を始め、一度未熟な文体で書き上げたものに、今になって筆を入れ直したものです。その当時は東日本大震災も福島第一原子力発電所の事故もなかったですから。
だから当初は『竹五郎さん』ではなく『武五郎さん』という表記でした。
福島第一原子力発電所事故に思うところあり、飯舘村へ足を運んだり、避難勧告で苦悩する農家のドキュメント映画の上映会なども開催しました。でも、僕にできることがもっとあるのではないかと思い、既存の『武五郎さんとマナティー』を書き直して、『竹五郎さんとマナティー』として原発の話にしようと思いました。
そして、書いているうちに黒尾という登場人物に魅力を感じ、彼を軸に三部作を書くことにしました。
原発三部作の第二部は『竹五郎さんとマナティー』とは打って変わって『出口は光、入口は夜〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅱ』というサイコサスペンスです。また第三部も趣が変わり、『CLUB ONYX SEVEN STEPS〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅲ』というディストピアストーリーになっています。そちらも楽しみにしていてください。
また、その他の小説『ワンダーランド』、『アンタレス〜二人のアカボシ』『月の砂漠の曽我兄弟』、『マドレーヌが焼けた朝には』も随時投稿していきますので、ご期待ください。
自分が脊髄損傷という障害を持ち、車椅子での生活をしているので、作風は障害を持った人や、社会から孤立してしまった人などの行きにくさやその中から生まれる希望が主になります。きっと、そうすることで、僕自身も自分の居場所や生きる命題を見つけることができるからだと思います。僕の一方的な観念で、誤解を生むこともあるかもしれませんが、できる限りひっそりと逞しく生きる人たちに寄り添いたいと思っています。
趣味の域を超えられないのはわきまえつつ、貪欲に書き続けたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
知久淳(ちくじゅん)