竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(34)
〈前回のあらすじ〉
柳瀬結子が福島を離れられなかった理由は二つ。一つはスナックの女主人と僕の父親が間違った道へ進まないか見守ること。そしてもう一つは、恋人だった直への未練だった。しかし、柳瀬結子は墓参りをしていながら、その墓石の横に直の名が刻まれていることに気づかないでいた。その残酷な現実に打ちのめされた柳瀬結子は、まるで夢遊病者のように水族館から消えていった。諒は何か言葉をかけるべきだとは思いながらも、何一つかける言葉を思いつけないでいた。
34・人間たちは、やはりどこかで幸福というものを履き違えていたんじゃないだろうか
柳瀬結子を見送ってから飼育棟に戻ろうとすると、どこかで僕らの別れ際を見ていたのか、事務室から高木がやってきて、僕を冷やかした。
「俺と同じくらいの歳の人だったな。どこの従姉か知らないが、あの美しさと艷やかを備えた人が身内だとは羨ましい限りだ」
ことさらに『従姉』の部分を強調していったので、高木は柳瀬結子が僕との血縁関係にないことを薄々感じ取っていたのだと思う。そのうえで様々なことを詮索しようとしていたのだろうが、僕が思いがけず「僕にとっては、姉のような存在です」と語気を強めていったので、高木は出鼻をくじかれて、言葉を失っていた。実際、直と深い関係にあった人なのだから、姉と言ってもあながち間違いではなかった。
僕と柳瀬結子の関係を詮索してくる高木を無視して踵を返し、僕は飼育棟に向かった。細く暗い通路を歩きながら、僕は網膜に残っだ柳瀬結子の後ろ姿を見つめた。
すべての因果から解放されて、ようやく自分の進むべき道へ歩みだそうとしていた柳瀬結子に、僕は残酷な告白をしなければならなかった。
僕と柳瀬結子以外に参る者のいない墓標に、直の名も刻まれていることを伝えると、柳瀬結子は見る見ると血の気を失っていった。そして、僕の父親を偲んで墓参りをしていたことが、図らずもその下に眠る直を参ることになっていた残酷さに打ちのめされ、床にへたりこんでしまった。僕は慌てて柳瀬結子に駆け寄り、その脱力した身体を支えた。
「あなたと直は……」
僕がそう問うと、柳瀬結子はか細い声で、「直くんは、私の恋人でした」と打ち明けた。その言葉を聞いて、僕はかつて見た直の夢を思い返した。
朝なのか昼なのかわからない海岸。匂いはないが、どことなく秋というより春のような季節。そこに恋人を伴った直がやってきた。直の恋人の顔には人の顔の滑らかな隆起はあったものの、そこに目や口はなかった。奇怪ではあったが怖れはなく、つるっとした滑らかな顔の表情は朗らかだったことに、心をほぐしたことを覚えていた。あの女性こそが、その頃まだ出会っていなかった柳瀬結子だったのだろう。
夢の中で、直は「父さんにも、会わせたかった」と言っていた。恐らく、二人の関係は父親には内密で、いつかきちんと恋人として紹介できる日を待ち望んでいたのだろう。その代わりに、直は夢の中で僕と柳瀬結子を引き合わせた。その真意まで語らないのが直という男の生き様でもあったのだが、もしかして、遅かれ早かれ僕の前に現れる柳瀬結子を、直自身に代わって守れという暗示だったのかもしれない。
程なくして、柳瀬結子は夢遊病者のようにふらふらと立ち上がり、僕に一礼して、背を向けた。力なく歩みを進めて水族館を出ていく柳瀬結子を、僕は追いかけるべきだったのかもしれないが、果たして彼女を捕まえたときに、何を語り、何を示せばいいのか、僕には皆目見当がつかなかった。だから、僕はだだ彼女の姿が暮れかかった海岸通りへ消えるまで、黙って見送る以外になかった。
重い気持ちを抱えたまま、僕は飼育棟でピッピとベーブのために、餌の準備をした。
マナティーは海底の海藻を食む習性があるので、泳ぐ魚に与えるように水槽に無造作に餌を投げ込むだけではだめだった。特殊な網に海藻を編み込み、それを水槽の底に沈めて、海藻が海底から生えている様子を再現する必要があった。その作業がなかなかの大仕事なのだが、竹さんはそれを率先して行なった。恐らく、苦労して編み込んだ海藻を、ピッピとベーブが嬉しそうに食む姿を見ることが、竹さんにとっての幸せの一つになっていたからだろう。
きっと竹さんには邪推も妬みも虚栄もなかったに違いない。竹さんは知っている。生きる価値だとか死ぬ意味だとかではなく、本当に人が豊かであるために必要なあらゆることを。
竹さんにとっては生きづらい世界だっただろうけど、それはあくまでも僕らの主観に過ぎない。竹さん自身は、群れる小魚のように、それを啄むカモメのように、人間社会に蔓延するあらゆる制約にとらわれない命の意義を本能的にわきまえていたに違いない。
それに比べて、僕らはどうだっただろう。カモメに啄まれるイワシを無情だと嘆き、イワシを啄むカモメを強欲だと断裁した。ただ、それは自然の摂理というものだった。そういうものに背を向け、抗い、欲に溺れる人間たちは、やはりどこかで幸福というものを履き違えていたんじゃないだろうか。
一心不乱に台座に海藻を編み込む竹さん。その様子を水槽の中から伺っているピッピとベーブ。彼らの姿を見つめていると、僕は僕が如何に生きるべきか見つめ直す岐路に立たされていることを、痛切に感じるのだった。
竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(35)につづく……
〈あらすじ〉
父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。
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