それは第4の火のような未知
希死念慮というものがある
どうして希という、希望とか、いい方のイメージのある漢字が入るかというと、まれになるからである。
ずっと死にたいのは自殺念慮。これは死にたいというのが、全ての基本になることで、死ぬことを目的として生きる事である。
自分も希死念慮がある。
仕事で失敗したとか、現状を深く理解する(無職・年齢・交友関係少なし)とか不幸な時だけでなく、楽しい時もだ。友人とのたわいない会話や、バカンスの最中、おいしいご飯を食べててもなる。
初めて自覚したのは小学校4年の時だった。
当時そういう言葉も知らなかったので、『穴』と呼んでいた。自分のそばにぽっかり穴が開いて、なんでもかんでも吸い取っていくのだ。
自分が飲み込まれないように生きるにはどうすればいいのか。
感情に関して観客に徹する。
本当にそれは死ぬほどのことなのか? 消えないといけないものなのか?
とか考えないで流す。
それは主観を手放す事なので、自分というものが見えない、わからなくなる。
そして現在も含めて過去に設定されるようになる。
それなりに生きていたのだが、数年前にそのことを人に話した結果、普通人間というのはそういうものではないらしいのを知った。
主観をできるだけ意識していこうと思った。
そうしたら、しんどい。
だいたい数日に一回くらい訪れる希死念慮のダメージがでかい。
根こそぎ気力を奪っていく。
前は違うレイヤーに存在すると認識していたのでそうでもなかったのだが。
そんな中で作家の朱野帰子さんのツイートを見た。
この終わらないと思っているものに終わりはあるのだと嬉しくなってしまってレスしたところ返事をいだいて。
今まで希死念慮はただの足かせだったんだけど、こういうエネルギーの表れという考えを知れてよかった。
自分という有機交流電燈に新しい火が灯りますように
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