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「浪人して良かった」という強がり史上一番強い「浪人して良かった」(@コワーキングスペース)

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自己紹介

別に都会に住んでいるわけではないのに、地下街が好きだ。人工の光だけに照らされ、聞き取れる気がしない人々の会話があちこちに溢れる、地上の社会から少しだけ隔絶した空間。その狭い世界の中に僕はやたらと人間味を感じる。終始人間しか関与していないその空間には、安心感と不安感が混在しているような気がする。だから、僕は地下街が好きだ。

僕の「地下街」というペンネームは、僕が好きなゆずの曲名からとった。ちなみに冒頭の内容はただそれっぽく始めたかっただけで、ペンネームとは一切関係ない。

はじめまして。地下街です。浪人生です。なのでアンケートなどに答える際は「無職」に丸をつけています。

今年の3月に学生という職を失った僕は、予備校や塾には行かずにコワーキングスペースという場所で約一年間を過ごしてきた。多分、相当に珍しいタイプの浪人生である。今回は、そのコワーキングスペース絡みのとある企画に乗っかって、いつか書こうと思っていたこの奇天烈な浪人生活をまとめることにした。少し長くなってしまった上に浪人生としてあるまじき発言を連発しているが、気楽に読んでいただければ幸いである。

趣味の話

これから一年間のまとめを書くにあたり、軸としてある自分の趣味「創作活動」についてまず紹介したい。

僕は幼稚園の頃から数えて200冊以上の本を作ってきた。小説、漫画、オリジナルの怪獣図鑑、成立してないクロスワードが載っているクイズ本、セロハンテープで作った袋とじのあるヒーロー雑誌、キャラとストーリーをほぼ全パクリした絵本など、無駄にしてきたコピー用紙と鉛筆、ホチキス針の量は計り知れない。

そして今年の4月、浪人生活スタートと同時にエブリスタ(ネット小説サイト)での小説投稿を始めた。6月くらいまで勉強2割執筆8割のスタンスを取っていたので、現在掲載してる作品数はちょっと多めの18本に及ぶ。いずれも短編ではあるが。

創作に対する想いはまた後半で書くので、とりあえず今は地下街が創作中心の生活を送っていることだけでも知っておいてもらえればと思う。

コワーキングスペースに何故こいつがいるのか

昨年度の受験、僕は国立大学一本で臨み併願はしなかった。そして仮に不合格で浪人となった場合、予備校や塾などには行かないということも親と決めていた。割りに合っているのかは行ったことないので分からないがとにかくそれなりのお金を身内の懐から搾取するよりは、図書館とかでコツコツ勉強すればいいや、というのが自分の中にあった。

合格者一覧に自分の受験番号が載ってなかった時は流石に少し凹んだ。不合格だった時は弟に「さて、僕は受かっていたでしょうか!?」と満面の笑みで尋ねて、100パー受かってる時のテンションで落ちたことを報告するというプランもあったのだが、そんな余計悲しくなるだけのプランを考えていた時点で既に不合格だった。

そして僕はその悔しさをバネに、エブリスタでの小説投稿を始めた。来年の受験に向けた戦いはもう既に始まっていると思い、自動車学校に通い始めた。そんな、スタートと同時にコース外へと走り始めた4月。僕は親の紹介を受け、受験レースが行われているサーキットから遠く離れた場外中の場外にある、コワーキングスペースへと辿り着いた。


「浪人するのはいいけど、勉強だけの一年にはしたくない」という根本的な想いが僕にはある。

浪人が決まった僕は昨年度末、先生方に報告とお礼をするため、卒業済みの高校に足を運んだ。
「一応、浪人しますっていう報告を……」
「おぉそうか。まぁとりあえずはお疲れ様。1年間頑張れよ」
「はい。あ、でもまぁせっかく一年暇な時間ができたんで…」
「暇なわけではないけどな」
「勉強しつつも小説書きたいなぁと思って」
「……お、おぉ」

この上なく渋い顔を見せる先生。その顔を見て、僕はどうやらサラッといけないことを言ってしまったようだな、と察した。
普通に考えれば当たり前だ。浪人生とは呼吸と勉強のみすることを許された生物であり、好きなことに少し時間をあてる程度の違反は黙認されているものの、それを堂々と犯行声明するなど許されていいものではない。

そんな常識があるのならば僕はいっそ、堂々と自由な一年を過ごそうと思った。自分の思う浪人生活を試してみるのに一年を費やす価値はきっとあるはずだ、と。

そんな想いから、コワーキングスペースを利用することにした。勉強とそれ以外との優先度を同じとしている僕に、一番合っている場所のような気がしたのだ。

コワーキングスペースで勉強をするメリット

コワーキングスペース。個人で仕事を持つ人々が、会社などには通勤せず同じ場所に集まって個々の仕事をすることで、色々な繋がりや新たなアイデアが生まれやすくなる、そんな目的を持った施設だ。IT関係をはじめ、カメラや映像のプロ、コンサル、デザイナー、手作りの作品を作る作家(えげつない重複)など、その職種は多様であり、且つ個人的には「面白い」と感じるものばかりである。

僕が通っているコワーキングスペースでは、月いくらかの料金を払って会員となれば6時〜23時までの利用が可能だ(ここ最近は18時に一度帰宅して夜食を済ませ、再度車で行って23時まで勉強するという日課)。館内には集中するための無音の部屋や穏やかなBGMが流れるオープンな空間など、様々な場所に机が置かれており、コーヒーなどを飲みながら休憩できる場所もある。

そんなコワーキングスペースで「受験勉強」をすることのメリットはいくつか有るが、それらは「ストレスが無い」という言葉におよそ収まると思う。

僕は「授業」が苦手だ。他の教科の勉強をすれば怒られ、寝れば怒られ、別に挙手してないのに一方的且つ個人的に先生は何かを問うてくる。ダラっと足を伸ばせば前に座る生徒のかかとに当たってしまう。黒板を眺めていたらふと先生と視線があってしまいすぐに逸らす。

ストレス。全てがストレス。

僕が産まれた時から既に、ほとんどの学校は決められた時間に決められた教科を半ば強制的に勉強させる施設であったようで、そこに自由は無い。僕にとって授業中の先生とは、ストレスを与えるものという意味で、中の薄いフィルムにくっついてくる納豆3、4粒と同じものであった。ストレスでしかない。

自宅浪人することについてよく「勉強の自己管理が大変だ」という声が上がる。しかし個人的には好きな時間に好きな勉強が好きな方法でできることほどラッキーなことはないと思ってやまない。

その一方で、勉強をサボろうと思えばサボれるが、家からここまであえてやって来て、周りには仕事をしている大人や親しくさせてもらっている方も多くいて……というある程度のプレッシャーというか、拘束がコワーキングスペースにはある。一人自宅で勉強するのとはまた違う。

結局学校と同じで拘束されてるやん、何言っとんねんワレ、と思うかもしれないが、学校や予備校と根本的に違うのは、周りにいるのが受験生でも先生でもなく、僕の受験勉強に何ら関与しない人たちであるということだ。だから全て主観的に、自分の捉え方次第で自分を自由に扇動することができる。自分の周りに、まぁ極端な話「見張り」がいると捉えて自分が勉強することに強制力を持たせるが、しかし勉強中にお菓子を食っても何も言われない、みたいな感じである。

これが自習室とかで、周りが皆同じ境遇の受験生だと余計な気遣いと妙な居心地の悪さを感じてしまう。受験期特有のn人(n+1)脚で頑張ろうみたいな空気が、昨年の僕にとってはどうも気持ち悪かった。余計なものを背負っている気がして。

まとめると、僕が思うコワーキングスペースで勉強する上での一番の利点は「ストレスの無さ」である。これは本当に人によると思うが、高校まで自発的に一年間勉強することがなかった僕の場合、ストレスなく自由に勉強ができることの贅沢さを味わうために勉強をしよう、というのがモチベーションの一つになっている。

自力での勉強方法

具体的な勉強内容について軽く触れると、僕は文系で暗記系科目が多めなのだが、正直YouTubeで勉強は十分補えている。
これは昨年のコロナ休校の際も思ったのだが、特に先生生徒との授業空間の共有が苦手な僕にとっては、リアルタイムではない映像授業が授業スタイルとしてはベストである。教えてくれる先生は僕のことを一切知らないので丁度いい距離感があり、偉そうにタメ口で授業をしてくることがない。早送り巻き戻し一時停止も可能だし、授業中に寝ても飯を食べても構わない。内容も、教材という普遍的なテーマはYouTubeではコンスタントに収益となるから、もう最近はかなり充実化してきている。

勿論足りない部分はあるのだろうが、金を払ってないのでそんなの当たり前で、要はどこにどれだけお金を注ぐかという話である。しかし、予備校等に行かないことのデメリットは確実に減ってきてはいる。

勉強するためだけなら予備校に行くべき

何か、あたかも「浪人生はどんどんコワーキングスペースを使うべきだ」と僕が信じているかのような流れだが、決してそんなことはない。先に結論を言うと、コワーキングスペースで勉強することには明確な向き不向きがあり、勉強をするためだけなら予備校や塾に行くべきである。

本来コワーキングスペースとは勉強する場所ではない。多種多様な成人たちが「仕事」をし、その中で交流やアイデアの共有しながら混ざり合っていく場所である。ただ淡々と大学合格に向けて勉強をするだけでは、別にそれでも大きな問題は無いのだが、何よりこの場所を利用する意味があまり無い。

先程書いた「コワーキングスペースのメリット」とはあくまで学校や予備校と比較した、勉強をする面でのメリットであり、もっと大きな考えるべきこと、そしてコワーキングスペースの良さが存在する。

そこで僕が必要だと思うのが「趣味」と「参加」である。

趣味
ここで小説という趣味が活きてくる。コワーキングスペースの中にいると当然周りは社会人だらけであり、受験勉強が交流のキッカケとなって何かを生み出すとはあまり考えられない。例えば

「ねぇ、ロゴをデザインしているところ悪いんだけど、この単語帳のとりあえずsection8まで覚えたから、そこまでの範囲で問題出してくんね?」

みたいな感じで大人を学校の友達みたいに扱える浪人生なら相当に溶け込めるだろうが、普通に邪魔なだけである。

自分の経験を話すと、とあるコワーキングスペースの会員さんが、僕が投稿した小説を読んでくれた。すると「これを何か企画に活かしたい」と言ってくださり、結果「妄想クラブ」という不定期開催の超ミニイベントが立ち上がった。4、5人で集まって僕の小説を読み、その内容や感想をきっかけにそれぞれ話したいことを話しながら意図的に脱線していくという、毎回緩くも深いダイアログが行われる集会だ。
正直他のメンバーがここから何かを得ているのかは僕の知るところではないが、少なくとも僕にとっては無茶苦茶に楽しく、勉強になり、刺激をもらえる時間になっている。何より自分の小説がその会の軸にあり、きっかけであることは嬉しい。

コワーキングスペースの会員は仕事が多様であれば趣味も多様である。実際僕も、趣味として小説を書いている方に出会えて、社会人且つ文章を書く人という目線から色々なことを学んでいるし、何かそういうものがあれば一気に繋がりが豊かになるだろう。

参加
他のところでも多分色々あると思うのだが、僕の通うコワーキングスペースでは様々なイベントが開かれる。なにかやりたいことがあるメンバーがプレゼンをしてみんなでそれをより良くしていったり、みんなでいつもの施設を出て自然の中などでコワーキングしたり、楽器を演奏できる人を中心にみんなで音楽を楽しんだり(僕もギターを趣味で弾くので参加させてもらっている)。せっかくそういう環境の中にいて、しかもまだ社会に出ていない立場であるならば、そういった企画に参加していくことでどんどん経験と学びを重ねていくべきだと思う。

そういった意味でやはり、少し余裕のある、勉強以外にも全然時間を割いていいと考えている人がやはりここには向いている。実際僕もなるべくそういった企画に関わっていこうと意識していた。

結果、小説を書いている方と交流でき、自然の良さを体感でき、大人数に混じって気持ちよくギターを弾け、ためになる話を聞け、知らなかった仕事を知れた。そして、大人になっても全力でやりたい事をやり、自由に暮らす人々がこんなにも沢山いるんだと知った。

大学に入る前に一度、コワーキングスペースに通い、言わば少し社会に出て、大人の中に混ざることで様々な刺激を受け、自分の将来や社会について考え、自分の場合それを小説にも活かす、という経験。これこそが僕にとって一番大きな、今年得たものである。そしてこの年齢でこの学びを享受するチャンスは、どう考えても今年しか無かった。

なぜ僕は小説を書くのか

この一年、自分にとって創作活動とは何なのか色々考えた。僕が勉強時間を削ってまで小説を書く理由にも少し絡んでくるので、せっかくの機会にまとめたい。

笑い
小学生の時から早速、本を読むことより書くことを楽しんでいた。何か面白い本を見つけたら、すぐ影響を受けて自分もこんなのを書きたいと思った。今見返せばそれらはほぼパクリで、ただ質の悪い印刷をしていたに過ぎないのだが、そんな創作の時間を何よりも楽しんでいた。

その頃から現在までベースとして書き続けているのが、コメディである。関西でお笑いを死ぬほど見て育ったというのもあるが、一番は「笑うこと」ほど平和で幸せなことはないと信じ切っているからであろう。作品を通して何かを伝えたいとなったとき、まず浮かぶのが笑いだった。

数年前、僕の身近な地域で豪雨災害が起こった。幸い自分は安全な所にいたのだが、避難所生活を送る高校の友達も多くいた。友達とボランティア活動をしつつも不安が残る日々。そんなある日、高校の文芸部で発行した冊子の写真と共に、未だ避難所で生活している友達からひとつのメッセージが届いた。

「避難所生活は不安でいっぱいだったけど、文芸部の部誌を読んだら少し楽になりました。地下街の小説で笑うくらい、余裕ができました」

自分の想いが誰かに届いたことが形として分かったのはこの時が初めてだった。今も自分の支えとなっている、大切な出来事である。

以来僕は、定期的にボケ全振りの小説を書くようにしている。個人的に好きなものは「めっちゃチョコ欲しい奴」。バレンタインで意地でもチョコを貰おうとする男の話で、これを読んでくれた友達の中には「この物語は抜群の安定感でモテない僕の実体験だ」と言う者もいたが、それは断固として否定したい。

全てが創作に繋がる
小説を書く、とは趣味としていいものを選んだなぁと我ながら思う。嫌なことも、腹が立ったことも、しょうもないエピソードも、今のこの1秒1秒全てが小説に繋がるのだ。創作のネタになる、と意識すれば大抵のマイナスな出来事も乗り越えられる。
そんな風に思いながらここ数年代謝を繰り返してきたからこそ、やはり小説を書くという行為はなるべく継続していきたいし、大切にしたいと思っているのだ。

夢についての薄い話と作品紹介

思えば小学生の時から一貫して、将来も何かを書き続けたいと言い続けている。その志は弱まるどころか年々強くなっており、特にこの一年はかなり小説を量産したのでフィーバーに入っていた。

何でもネタになる、と自分が前向きに生きるために創作しているのもあるが、それ以上に僕は読んでくれる人のために作品を書いている。何か小説ならではの驚きを、今までに無い仕掛けを、そして単純に面白いことを、その都度ひたすら追い求めて作り上げていくのが僕の創作活動であり、最大の楽しみだ。作品を届けて楽しんでもらうことが、今のところ誰かのために自分ができる一番の行動である。だからこの先も、誰かのために何かを書き続けていきたいのだ。

今年はコメディ以外にも色々チャレンジした。自分の中で思い入れの強い作品いくつか挙げたい。

やはり何か構成上のひねりというか、プロットとしての面白さ、小説でしか書けないものを意識したものが多い気がする。

最近の話。僕は二、三日フル稼働で一気に0から100まで書くタイプなので最近は全く一つのまとまった作品を書き上げていないのだが、それでも勉強の頭冷やしに使おうと、毎日ショートネタを投稿している。こういう小さなものが一つの短編の基になることもあるし、何よりやはり、自分が面白いと思うものを届けていきたい。

まいにち架空日記。果たしていつまで続くのか。

「浪人して良かった」は強がりなのか

さて、もう今回は終始自分の見方で物事を言っているのでこれもあくまで個人的見解なのだが、「浪人して良かった」とは強がりである

それは大前提として「現役合格がベスト」だという思いがほとんどの人にあるからだ。

本当は現役合格したかったけど叶わず、仕方ないので浪人した結果、それはそれで色々経験にもなったし得たものも多かった、みたいな人が「いやまぁ何だかんだで、浪人して良かったわ」と言う。

一方、元々浪人したくて、一回の浪人を経て大学に受かる方がいいと思ってて、実際一年楽しかった人は、あまりに当たり前すぎて多分「浪人して良かった」なんて言わない。もしくは「いやぁ、現役合格しなくて良かったわぁ」と言う。

また一方で、大学に現役合格した奴が大学一年生として一年間を過ごし、最終的に「いやぁ、大学現役合格して良かったぁ」とは言わない。もう大学に合格したら浪人した場合のことは比較対象にならず、この時点で浪人より現役合格の方が一般的に良しと見なされていることが確定している。

ゆえに、浪人して良かった、など弱い者が強い者に対して見せる強がりに過ぎないのである。QED.


いやぁ、それにしても、浪人して良かった


ストレートに合格していたらどうであったのかはもう知り得ないことだが、今年浪人したからこそ得られたものがあることは確かだ。

本来、浪人生である僕は大学合格のために一年間、勉強をしまくるべきだろう。しかも軽いカミングアウトだが、僕はそんなに勉強しなくても普通に受かる大学を目指しているわけではなく、共通テスト(旧センター試験)1ヶ月前にして勉強の出来が完璧だと言い切ることはできない。

それでも僕はこの一年、予備校に行かず、社会人に囲まれて、勉強しつつ小説も書き、楽しく過ごすという決断をした。その理由には、僕がそもそも受験勉強を第一優先としていないのもあるだろう。

正直、受験勉強を死ぬ気でやるという行為は、僕より偶然先に産まれた先人が暇潰しに始めた勉強を、悲劇のヒロインぶって何かに苦しもうと考えた目立ちたがり屋が苦しむための材料に選び、そのアピール行為がそのまま慣習化しただけの時間浪費作業であり、そんな慣習に飲まれた大人たちが下の世代にマウントを取るため繰り返し引き継いでいった、中身ではなくその行為をすることのみに価値がある割に合わないキモ文化だと僕は思っているので(まじで個人の意見)、それに365日全てを費やすつもりは僕には無い。
それが、僕の浪人生活である。

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過ぎた時間はもう戻らないという世界に生きている以上、全ての選択を正しいと思うべきだし、実際正しいに決まっている。無論後悔や反省は生まれるのだが、それ込みの正解であると僕は思う。だから正確に言えば浪人して良かったかどうかをそもそも判断しようとは思わないのだが、あえて言うとなれば僕は、浪人して良かった、と堂々と強がることができる。

最後に、地下街はなぜ共通テストすら始まっていないこの段階で浪人生活のまとめをしたのかという話なのだが、一つは合否が決まっていない段階だからこそ言いたい放題言えるということ。そしてもう一つは、この一年という浪人期間が、大学合否に関係なく確定で価値あるものになったということである。これは別に最悪今年は落ちてもいいとか思っているわけではなく、既に十分なほど得るものは得た浪人生活になった、ということだ。

現在の社会システムと慣習の中では、大学合格だけを一年間の目標、ゴールとするのが模範的で健全な浪人生なのだろう。僕は今回、それをキモ文化だとか言って一番近いところから敵を作ってしまったのだが、僕は僕で意味ある日々を送ったし、実際合格できるのかはまだ分からんし、だから今回はイーブン、ということでお許し願いたい。

終わりに

7月頃、模試を受けた。僕と同じく浪人している同級生と久しぶりに会ったのだが、友達の僕に対する第一声。

「あ、お前ってまだ受験活動してたんだ」

まぁインスタに新作小説の紹介を凄いペースで投稿していた時期なので無理もない。
そしてその流れで、もし今回の模試で国語の小説で満点近く点を取れれば、小説ばかり書いていても無駄にはならないね、という話になった。

結果は、共通テスト模試、小説、24点/50点。過去最低を更新した。浪人してから小説を書きまくった結果、小説の点がグンと下がった。謎の反比例現象に、ドン引きした。

なぜ点が上がらなかったのか。理由は単純である。小説を書いたり読んだりすることと、小説の問題を解くことは一切関係していないからだ。

試験、特に共通テストの小説問題を解く際、感情移入したら終わりである。文章に書かれていることだけを読み取り、客観的に解かなければならない。つまるところ、小説の問題文を小説だと捉えてはいけないのである。

何だそれ。

授業では小学校の頃から、自分はどう感じたかとか、自分ならこうするとか、そういう読み方を教わってきて、実際それが小説を読む醍醐味であるのに、こと受験に関してそれは許されない。本当に。

酷いときは問題の解説において「正解は⑤。主人公がこの場面で喜んでいるという直接的な表現は無いが、〇〇という行動からそう読み取っても問題はない」と書かれている場合がある。

いや、それは、ただのお前の解釈や。

性格が悪いとかそういうのじゃなく、実際に解説を見ても腑に落ちないケースは多々あり、それは問題の性質上必然であると僕は思う。

小説は、問題にされた時点で小説ではなくなるので、もう『小説』とかいう括りで問題を出さないで欲しい。せめて『問題を作った俺はこの物語をこう解釈したけど俺の方が地位も経験も上だから俺と同じ解釈した受験生の勝ちね』とかいうジャンルにして欲しい。

共通テスト国語は大問4つ。
『評論』
『問題を作った俺はこの物語をこう解釈したけど俺の方が地位も経験も上だから俺と同じ解釈した受験生の勝ちね』
『なんか給うとか候うとか言いたいだけのやつ』
『本来昔の中国人が読むやつ』
これでいいだろう。

……とまぁ勉強していたらこんな不満は山ほど出てくるのだが、そんなこと言ってても仕方ないので明日からもまた形式的な勉強をし続けるしかない。
てか、去年もこんなこと思いながら、大して楽しくもない勉強を無感情に続けていた。そして今年も、同じようなことを無意味に考えてしまっている。結局、勉強のストレスから完全に逃れることはできないのだ。あぁ、

浪人しなきゃよかった



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