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静けさの極み、寂しさの極み

私の古い友人の某氏から、夕方、突然のメールが届きました。

 リタイアの挨拶と、たまには飲もうといった当たり前の内容でしたが。返信すると、まもなく、今度は空メールが届いたので、酒でも飲んでいるのか?とメッセージを送ったら、一杯やりながら時代劇をみていたようです。一線から引いた寂しさが、しみじみと伝わってきた瞬間でした。そのとき浮かんだ言葉が、寂寞(せきばく)です。寂(せき)という文字の読み方は、ジャクの方が一般的なようです。その意味は、声がなくひっそりしている、しずか、さびしい。寞(ばく)は、無あるいは、程度の深まることを意味する言葉だそうです。

寂寞(せきばく)とは、静けさの極み・・でしょうか。寂しさの極み・・でしょうか。

 人は年を取り、介護状態になったり、認知症で一般生活が困難になったり、いずれそんな時期を迎えます。まさに、寂寞(せきばく)の時間です。

 さて、国(厚生労働省)では数年前、「認知症の人を地域で」といった内容の報告書を出しています。ここでは、”認知症の人は精神科病院や施設を利用せざるを得ないという考え方を改める”というものですが、理想と現実は、違うんですよね。核家族化している今の時代、自宅介護する家族の負担の大きさは半端ではありません。役所の人達には、介護の現場や介護の現実が、どの程度、見えているのでしょうか。いや、見ようとしないのかもしれない。行政が、国民の奉仕機関だとすれば、残念な認識だ。