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身体と知性

昨日の朝に飛行機で大阪へ飛ぶ直前に途中まで書いていたのだが、着地して移動した先の奈良で寝る前に筆をおいた。テーマは「身体と知性」と名付けてもいいかもしれない。

【アナグラム】今朝、コンビニで買い物をしていたのだが、そのときに売られていたレアチーズプリンの商品名を「レズプリン」と読み間違えてしまった。ここ最近になってLGBTに関する本ばかりを読んでいたためだろうか。デザートコーナーでパッケージを眺めている最中に突然動かしていた手が止まり、次の瞬間にギクリとしてそのプリンを見た。その時の脳内における情報処理は、まるで深層学習を用いた画像処理でよく行われるニューラルネットワークでの動きに近いものだったと思うが、学習が一瞬滞り、再びプログラムが走ったように感じた。ここでは、そのパッケージ(レズプリン)の意識的な認識に先立って「誰か」が、3文字も離れた「レ」と「ズ」をくっつけて読んだり、その間の「アチー」を透明人間のように読み飛ばす仕事をしている。これは、よく考えると極めて複雑な仕事である。身体の無意識的活動と言ってもよいだろう。人間の身体は自分が思っているよりも頭がいいのかもしれない。

ちょうど今思い出したことだが、かなり前に読んだ『残り97%の脳の使い方』(苫米地英人著)には内部表現の説明が書かれていた。内部表現を知ることが重要であると。内部表現とは「あなたの脳と心が認識しているこの世界すべて」であり、私たちは「目からくる情報を脳で処理して現実を再構築している」という。これは、頭にどういう情報があるかで見えるものが変わるということを意味している。知っていること以外は見えない、すなわち認知・認識しているもの以外は何も見えないということを。
ここからわかるのは「土台となる知識がなければ、見える世界の輪郭がぼやける」ということ。前提知識がないなら、情報に関する本質的な実像からの分散が大きくなって「見えなく」なる。
たしかに「知らない」ものは見えないが、その命題の逆をとった「見えないものは知らない」が必ずしも成り立たないことは想像できる。(家から出かける直前になくした鍵を必死に探し回っていたのに、実は目の前にあったという場合など。)一方、「知らないものは見えない」という命題の対偶をとると「見えるものは知っている」となる。自分が見ることができるものは、それが自分で認識したものであれ、他の人の助けを借りて認知したものであれ、見たことがないものでも身体がこれまでの「学習」から知っていると判断したものと捉えていいだろう。自分が現時点では理解できないものでも、「どこかで見たことがある気がする」「なんとなくこれのような気がする」などと感じるのは、間違いなく身体が知的な労働の報告を当人に向かってしているように思えてならない。とはいえ、実用的な場面で現実と対峙しなければならない場面で「知らないものは見えない」ことが都合の悪いように起こってしまうとよろしくはない。
私もそうなので恐縮だが、「まだまだ圧倒的に知識が足りない」ということを家庭教師で担当する生徒、特に成績が伸びた子には少しずつ伝えるようにしている。このことを次世代には理解してほしい。(もちろん自戒も込めている。)私の僅かな経験から言えるのは、読書によって知恵を自分の血と肉にしていくのは難しいが、それをして知識を身つけることはできるということ。知らければどうにもならない。今まで何度もそう実感する場面があった。

今は「プリン」がデジタル空間で出会う見知らぬ他者へ示す記号として消費が行われている。すなわち、モノとして受け取ってそれ自体を享受するのではなく、それを誇示せむと息を切らして事務的に処理されたプリンが人工的かつ非線形的に記号化されている。この商品(プリン)の企画を思いつき、マーケティングの施策を考えた人は、それが個人であっても法人(集団)であってもかなり「すごい」と思う。入荷してからものの数分にして一瞬で品切れになる瞬間というのを間近で目撃したのは何年ぶりであろうか。なにしろ、そのメタファーが適切だと感じるぐらい「飛ぶように」売れていたのである。
今朝の出来事には自分でも驚いたので、ちょうどそこで自分の身体に起こっていたであろうことをここに記述することにして、した。

今年は、「今は何だか分からないが、有用的に機能すると事後的にわかる」ような他者との「つながり」が最重要なテーマになると思っているが、おそらく2024年は「身体」がそれにとって代わるだろう。今朝はプリンをおいしく食べている方に共感したいという思いでつかんだそのお店での最後の一品を手にとってレジに行ってお店を出た。
(これは決して「記号」のプリンを買ったのではありません!もちろん、デザートのプリン(モノ)です!笑)

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