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「魂がフルえる本」 その1《「生」ぜんぶの中から生まれてくる思想 — 『文章の話』 里見弴(とん)》

『文章の話』(岩波文庫)里見弴(1888〜1983)

「文章の話」というタイトルから、「文章の書き方を説明する本」を想像してしまいますが、まったくそういう本ではありません。 確かに、最後にはその話になるのですが、その大半が「人間の生き方」を正面から語っている本です。

「たいことをたいせよ」

— 私は、なんだろうと、「たいものをたいする」方が、正しい生き方だと信じています。 この習慣によって、人は、はっきりします、てきぱきします、鋭さをまし、生々(いきいき)として来ます、行こうとするところへ行き着ける可能率を高めます、— — 要するに、人間の値うちが、ぐんと違ってきます。「たいものをたいする」これにはまず、感動の純粋がいります。(p144)

これは、あなたが感じたこと(〜したいこと)を感じたままに表現せよ(たいせよ)、表に出しましょう、ということです。
もちろん日常的には、たいことをそのまま「できない」ことはある。
けれども私は、そこで嘘つかないで、「たいことをたいしていく」ことで、自分を信頼をしていくことができるんじゃないかと思います。

この「文章について」という、弴さんが自分の専門を語るはずの本の中に、一見文章と関係ない「たいことをたいせよ」という言葉が出てきます。
「たいことをたいせよ」とは、何かを「したい」と思って実行する前に、「これこれこうだからできないな」などと、後付けの理由はいらない、ということを意味しています。
弴さん自身が文章を書くことにおいて、最も大切なことを真っ正面から語っています。

余計な後付けの何か=「うそ」。
弴さんは、その「うそ」を「対外的なうそ」に対して、「対内的なうそ」と呼んでいます。

「対外的なうそ」に対して、「対内的なうそ」

— 対外的のうそと比べたら、悪心と呼ぶのも気の毒なくらい、ほんのひと刷毛、さッと撫でたほどに、意識の表面をかすめ去ったきり、それこそ、「闇から闇へ」という言葉のように、閾(いき)の下にうずくまってしまうやつ、— — ほんとうは、しかし、これが一番こわいのです。(p74)

「自分に嘘をつく」というのは、その瞬間には自分で分かっているけれど、あっという間に、「それ」になってしまいます。
そういう「うそ」は本物の自分をあっという間に巻き込み、「うその自分」へと引きずり込んでいく。

これは、「表現の問題」すべてにあてはまります。
そして、人が人と関係を持って生きる生き物である以上「表現」から逃れられませんから、いわゆる「表現者」だけでなく、「生きている人」すべてに当てはまることだと思います。

文章でも、太鼓でも何でも、テクニックは必要です。自分の中にあるものをちゃんと、素直に外に出すために技術は高めなければなりません。
自分に〝在る〟ものを適当に伝えたいのであれば、ある程度のテクニックで良いでしょうが、もし〝在る〟もののありのままを伝えたいのであれば、技術を磨かねばなりません。 逆にテクニックだけでも、中身があるように見せることもできてしまいます。
文章ならば、「こう書けば響く(感動する)よな」という書き方ができる。
自分自身が響いていない、感動していないのに、他人を感動させようとする書き方をすると、ズレというものが出る。
響くはずの文章なのに、自分は響いていないから、自分と文章が乖離する。

自分はそういう太鼓を打つことができない。
「フリだけで人に響かせる」なんて、気持ち悪くてそんなこと絶対にできない。
「この俺が響きたいからやってるんだ!」
というのが中心なのです。

なぜ自分は、和太鼓に向かうのか。
その核にあるものは、これだけです。

弴さんの本は、
「なぜ君は文章を書くんだい?どうしたいんだい?」
「君がなにかを“書きたい”、と思ったからなのではないのかい?」
と、それを思い出させてくれる本です。

この『文章の話』という本は「自分を響かせて生きていれば、響く文章が書けるかもしれないよ」という、テクニック以前の〝在り方〟を問いかける本なんです。

これは元の元、つまり自分が一番大事だということ。
これは、私が和太鼓を教えるとき、まずその土台として「全身を響かせるカラダ使い(体を整える全身運動)」から始めることと同じなのです。

「やさしいことの難しさ」

— やさしいことはむずかしい。
続いて、やさしいことのむずかしさを知ることはむずかしい。(p27)
— やさしいと思って、大きに見くびってかかったことのなかに、存外のむずかしさを発見して、はッとする、その瞬間に、初めて知ることの出来る、なかなか容易ならぬ経験です。 「容易ならぬ経験」すなわちむずかしいことなのです。言葉を換えれば、なんでもないことの有難味がわかる。と言ってもいいでしょうか。(p28)

「難しいことの易しさ」という例で、弴さんは、数学とか化学とか、方式も定義も知らないとどうにもならないけれど、それでも極初歩の初歩からちゃんと勉強すれば、面白いと思えるという例を挙げています。
逆に、「易しいことの難しさ」を感じさせる例として、「綴り方」「文章を書くこと」を挙げます。文章書きが嫌いだからと言って、テストで白紙のまま出すと言うことはなく、書くことは書ける。
でも、書けることは書けるだけに、その先に行くための勉強の仕方にも困るものだと。言葉は「極初歩から」はやり直せないですよね。
まさか、幼児の頃にもどって「まんま」とか「おっぱい」等とできないですからと、弴さんは言っています。

和太鼓をやっている者として、ここはすごく共感します。
「太鼓」は、至極簡単な楽器です。
ばちで誰が叩いても、メチャクチャに叩いても音は出ます。
これ以上ないくらい、簡単な楽器なんです。

弴さんが例に挙げた「綴り方」と同様の例として、私は「腕の上げ下げ」の話をすることがよくあります。腕を上げたり下げたりは、誰でもできます。
太鼓を鳴らすだけなら、ばちを持って腕を上げ下げするだけで十分。
ばちが太鼓に当たれば、必ず音が出ます。
つまり、太鼓は何も知らなくても、何にもできないということはない楽器です。まとが大きいから、どこを叩いても音は出る。
そういう意味で和太鼓は、「易しい」。

でも、それは逆にいうと、
どこを叩いても音は出るけれど、「打つ強さや場所によって、音量も音色も変わる」ということでもあり、自分の望む響きを出し続けるということは、「常に常に正確に体をコントロールして打たなければならない」ということなのです。 これは、なかなかに難しい。

さらに、ある程度のことは誰でもすぐにできる〝やさしい楽器〟だからこそ、すぐに〝できた気〟になってしまいがちなので、この難しさに気付くこと自体が、とても難しい。
まさに和太鼓は「やさしいことのむずかしさを知ることはむずかしい。」楽器なのです。

「同じものは二つとない」

— 古今東西、どこをどう探したって、君って人は、決してもう一人とはいないんだ。(中略)君が死んだあとに、君がいるかい?僕が死んでしまったら、もう決して僕はいないんだ。そういうわけで、人間は一人残らず『世界的』以上、『古今東西的』な存在なんだよ、一人一人が、絶対にかけがえのない宝物なんだよ。それに、なんだい、ふた言めには、『僕なんざあ・・・』『僕みたいなもんは・・・』誰に許されて、そう自分で自分を軽蔑するんだ。(中略)君にやれることを、一体誰に押しつけようと言うんだ?(中略)誰が君のすべきことまで、引取って、代わりにやってくれ手があるか?『出来ないまでも、やれるとこまで、精一ぱい、やってみよう!』なぜ、いつでもそういう気持ちでいないんだ。(p101ー102)

「なんでこの世の中っていうのは、周りばっかり見るんだ?!」
そういつも憤っているので、ここは、私が深く感動するくだりです。

「どこそこの誰べぇとかいう『偉い人』が言ったからってなんなんだ!あんたがそう思ったことが全てなんだよ!」
と思っているので、弴さんの言葉に強く勇気づけられます。

弴さんが言いたいことは、つまり、
「あんたはあんたとしてあんたなんだから、あんたが神なんだよ!」
と言うことです。
私は、勝手にそのように断言します。

ともかく私は、弴さんの正直さが大好きです。
「自分はこう考えるのだ」、その思想が、人の顔色を見るのではなくて、生きざまから出てきている。
物を書く仕事、それも含めた、弴さんが生きてきた、その「生」ぜんぶの中から生まれてきた本だからこそ、読むたびに私の魂が強くフルえます。

弴さんのように「ありのまま」で生きていこう、そのように思うのです。


文章の話 (岩波文庫) 文庫 – 1993/1/18

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