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5月は半分死ぬことにしている

4月も後半に差し掛かると、まず食欲がなくなってくる。

なんとなく食べたいものがなくなってきて、食べるのが億劫になり、食べると気持ちが悪くなってきて、やがて嘔吐に至る。
「嘔吐症」みたいな言葉が浮かぶようになるのは、ゴールデンウィークが開けたころ。

去年は4月末からの不調を皮切りに、10キロ近く落ちた。
涼しくなってから胃カメラを飲んだところ、慢性的な胃炎、というような診断を受けた。それ以外には特になにもなし。
これも拒食症というのかな、という予感はちょっとしている。胃がカラになると心地いい。
けれど落ちた体重は、元来の食いしん坊気質が功を奏して、毎年ゆるやかに戻っていく。
産後に10キロ近く太っているから、今や10キロ落ちててちょうどいいくらいなのだけれど。

「季節の変わり目だしな」とか「これも5月病ってやつかな」とかいろいろ考えていた何年もの年月があって
その先でついに思い至ってしまったのは、ほんの数年前のことだ。
これはたぶん、私のココロだかカラダだかが、死にたがっているのだ。たぶん。たぶんね。
長年の習性、もはや心身のクセみたいなものだろう。

仕方がないから、自分が死にたがるに任せることにした。
どうせ死なないのだろうし、と、諦念めいた確信があるからこそできることだ。
自分の心身に任せる、と決めて以来、
私は毎年、5月は半分死ぬことにしている。


一番死にたかったのは、小学生の頃だ。
小学6年生の5月、私は悪質な性被害にあった。

他人によっては、たぶん「たかがそれくらい」と言われるような類のものだったと思う。
でも、小学生の私を殺すには十分で、小学生の私に「この人生は終了しました」と思い至らせるのにも十分だった。

記憶がある限りでは、私がはじめて性被害にあったのは幼稚園児の頃だった。
1件は体にド派手な跡が残っていたので保護者に発覚し、その他のあらゆる被害は闇に葬られることになった。
自分が何をされているのかもよくわかっていなかったし、ただ嫌悪と恐怖だけが残るそれを、どう、誰に伝えていいのかもわからなかった。
うちは家庭環境もよくはなかったし。

「この人生は終了しました」と感じるそのことがあって
首やら手首やらを切ってみたり、
ドアノブにくくりつけた縄跳びを首にまわしてぶらさがってみたり、
あのトラックに突っ込んだら死ねるだろうかとか考えたり、
ここから飛び降りたら死ねるかな、痛いだけだったら損なだけだな、とか考える日々を過ごした。

「私だけが死ぬのは不公平では?」とかも考えて、
あの犯人を見つけたらせめて怪我くらいさせてから死のうと、カッターをポケットに忍ばせておいた時期もあった。

今から思えば、カッター程度では大した怪我もさせられないだろうに。小学生なんて、その程度には幼く、まだ多くを知らない年齢なのだ。

当時の担任を私は信頼していたのだけど、そのことがあって私の様子が一変してからは、担任との関係も変わってしまった。
そのことについては、いまも憤りと悲しさを覚えることがある。
担任はたぶん、いわゆる「よくできた生徒」だった私に少し依存していたのだ。
私が一番辛かったとき、喜も怒も哀も楽もぐちゃぐちゃで何もわからない混乱の嵐の中でもがいていた私に、担任は「もっとしっかりしてください」「あの明るいあなたはどこにいってしまったのですか」「幻滅しました」と手紙を送って来た。
家庭だけでなく、学校にも行き場のなかった当時の私。本当によく生き延びたものだなぁと今でも思う。

確実に死に至れる方法ばかりを模索するばかりの日々、そんな毎日を過ごして、けれど小学校を卒業し、中学校を卒業することになっても私は死ななかったので
どうやら自分は、この件で死ぬことはないのかもしれないな。と思うに至った。
死んだ方がいいけど、死なないんだろう。
死にたくても、死ぬことはしないんだろうな。
矛盾するように見えるけど、私にとってそれぞれ、両者は共存できる事実だった。

その後高校に入って、被害にあった「地元」をほんの少しだけ離れることができるようになった私は、少しずつ浮上していく。
学問というものを身につけたので、自分の身に起きたことの原因を考えることができるようになったり。

第三者として自分を見た時、
「悪いのは100%加害者で、被害者になんの落ち度もあるわけないじゃないか」と思えたことがきっかけだったと思う。
自分の他者化は、なかなかに便利だ。
自分のことだとわからないけれど、他者におきかえて見てみたら、その異常性がわかる。
そういうことは往々にしてあると思う。

問;どうして自分は、あんな目にあってしまったのか。
答;そこに加害者がいたから。

それ以上でもそれ以下でもなく、ただそうなってしまった。それだけのこと。
無味乾燥な事実。
その干からびた、厳然とした事実の頑なさが心地よかった。
私は酸いも甘いも必要としていなくて、ただただ事実が欲しかったのだ。

積極的に死に向かうことを中断した。
どうせ終了している人生なので、あとは余生を静かに過ごせれば御の字。
ただ、できることなら、私のように無意味に人生を損壊される人がいなくなればいいなとは思う。
ゾンビとして、私はいつか腐り落ち爛れ命が尽きるまで、生きているふりをし続けるのだろう。


そんな風に考えた時代を過ぎて
生きているふりをしていただけだった私は、いつしかちょっとずつ、本当に息を吹き返し
余生ながらも、今はなんと命を育てることを始めたりもしている。

その命は、少なくとも20年は見守っていたほうがいいのだろうなという存在で
できることならその責任を負いたいと、まっとうしてみたいと思えるまで、私は呼吸の方法を思い出していた。

私が一度死んだあの日以降も、いろいろな性被害は経験してきた。
中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、「社会人」になっても。
「結婚指輪が魔除けになる」なんて話はうそで、しち面倒臭いストーカーもどきができたこともあった。
小さい命を連れるようになってからは、ただただ社会のミソジニーに辟易とさせられる日々。

それでも、溺れそうな日々の中でする息継ぎの作法は覚えていた。

そこに加害者がいただけ、というシンプルな話を忘れないこと。
悲しい時にも嬉しいときにも、大好きなアーティストの音楽を聴くこと。
怒りを怒りとして自覚すること、忘れないこと、正しく表出するのを恐れないこと。
そういう日々のひとつひとつが、きっと今日も私を生かしている。明日の私も生かすのかもしれない。

それでも私の一部は、いまもやっぱり死んでいるのだと思う。
傷はいつか癒えるかもしれないけれど、壊死した部分が戻ることはないのだ。
悲しみは消えるというけれど、そんなのは喜びだって一緒だって、私だって知っている。
やまない雨はないけど、雨なんてまたすぐ降ってくる。
あけない夜はないけど、朝が来て昼が来たら、夜もまた来るのだ。

同じことだ。
だから一度死んでから息を吹き返したように見える私も、また死ぬ。
桜の季節を過ぎ、明るい新芽の季節が深まったころに、私がかつて殺されたこと。
それからの、少なくとも数年はほぼ死んでいたこと。
私のココロだかカラダだかは、全部全部、しっかりと覚えている。
私は何度でも殺される。

失った時間は戻ってはこなくて、私の子ども時代は死んだままで、
そうやって何度でも死ぬけれど、放っておきさえすれば物理的にはまだ死なないらしいこともわかっているので、
だから私は、今年も5月は死ぬことにしたのだ。
ぐずついた、むしろ死にたくなるような頭痛の続く雨ばかりの季節に、私はきっとまた息を吹き返す。
5月に死ぬこと。
それは私がゾンビとして人間のふりを続けていくために、きっと必要な儀式として、この人生に組み込まれてしまっている。


三十路を何年か過ぎた5月、今日も私は死んでいる。
緑は深まって、夏日が混じるようになった。
昼間の時間は少しずつ長くなり、沖縄はとっくに梅雨入りしている。

数日前まで、睡眠も覚束なかった。
睡眠が削られると、気持ちもゴリゴリと削られるからいけない。
けれど今年は、徹夜してでも読みたくなるような本がそばにあったからよかった。

この数日で体調を崩した大事に育むべき命は、いま私の隣でYouTubeを見ている。
その命を一緒に育んでいくパートナーは、私がゾンビであることなど知る由もないけれど、時々半分死ぬ私を、そんな私として認識しつつタッグを組んでくれた人だ。
彼の信頼にはできるだけ応えられる自分でいたい、と、わりとしばしば思えたりもする。

私の大好きなアーティストは「迷子のままでも大丈夫」「同じ虹を待っている」と繰り返し歌う。

初めて死んでから20数年が経ってようやく、きっとまた生き返れることを、私は少し期待している。


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