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人に「命令すること」の功罪

自分のTwitter(@KeiOgasa)では教育系のアカウントをフォローしたりしているのですが、なんとなく心に引っかかりを感じるツイートを見かけました。

ツイート内容は夢オチで締めているのですが(笑)、実際に似たような状況は我が家の育児でもこれから起きえるだろうなーとぼんやり考えたりしました。

ツイートの子が「牛乳を飲むと頭が痛くなる。。。」と言っている理由は、周りの大人から「牛乳を飲め!」と言われているからだと想像に難くないかと思います。そんな風に、子供に対して「〇〇をしなさい!」と自分が命令をしてしまう場面がきっと出てくるということに、ザワッと不安を感じました。

「なんでそんな不安を感じたの?」ということを、文章を書きながら頭の中を整理していこうかなと思います。あまり脈絡のない話ばかりになるかもしれませんが、よろしければお付き合いください。

「人に命令する」ということの愚かしさ

そもそもですが、私は人に命令すること自体が嫌いです。

なぜそう感じるのかな?と自問した時、『他人をコントロールすることなどできない』という考え方を根底に持っているからかなと思いました。

いくらキツイ物言いをしようと、暴力的な手段に訴えてでも、最終的に人は他人のことを好きにどうこうできない。自分の行動は、その人自身でしか変えれないし、決断も最後には自分自身でしかできない。

それは私の人生観にも繋がっていて、自分の人生、最終的には自分でしか責任は取れない、というように強く感じています。

そんなふうに考えていることもあり、『人に命令する』ということが、絶対に成しえないことに挑戦するように思えて、とても愚かしいことに思えてしまうのです。

「良い命令」と「悪い命令」って?

そうはいっても、世の中のあらゆる場面で、組織やチームとして活動をするために他者に対して何かしらの指示や指令を出すことは往々にしてあります。例えば、妻が夫に何かしら家事をするよう頼む、会社で上司が部下にタスクを振るなどがあげられるかもしれません。

そうした行動は「命令する」ことと何が違うのでしょうか?
私自身も他人に対して指示・依頼・命令することもありますが、最初に引用したツイートを見たときのように心が不安になることはありません。その違いはどこにあるのでしょうか?

色々と考えてみると、ここでは、その命令によって生じる秩序というものが、一つの違いになっているのではないかなと思いました。

英語で「命令する」という言葉は"order"といいますが、この"order"は他にも「列」という意味も持ちます。イメージとしては、将軍の号令一つで軍隊がきれいに整列して隊列を作るイメージでしょうか。

命令というものは必ず目的を持ちます。ただ、命令の本質的な価値というものは、その命令の目的が生み出す社会的な秩序にあるのではないでしょうか。その秩序を求めて、人は他人に命令を出すのではと考えました。

命令することは相手の価値観を奪うこと

ただ、ここで一つ無視してはならないことは、命令によって社会的な秩序が生み出される代償として、個人の心が犠牲にされうることがあることです。

以前に保育士の方が主催するセミナーに参加したことがあるのですが、そこで「選択することが価値観を育てる」という話を聞いて感銘を受けました。

子供が絵を描くにしても、どんな画材を使うのか?どんな色を使うのか?何を対象として描いていくのか?ということに制限を設けずにのびのびと育てることで、その子の感性や価値観が育っていくそうです。

この対極にあるものが命令ではないでしょうか?

どの画材を使うのか?どの色を使うのか?何を描くのか?を全て決めてしまって、絵を描かせる。

そんなことをすれば、その子供が自分で楽しさを発見する機会を奪ってしまうことは自明のことではないでしょうか。

実は、社会においては大人たち同士でもそれと同じことをやって、各々が心をすり減らしてしまっているように感じます。

おわりに

「命令をする」ことがすべて悪だとは思いません。

たとえばもし、子供が身体に危険が及ぶような遊びをしていたら、それは強い命令をして止めるでしょう。命令すること/されることは、社会で生きる上で必要なものであることは間違いないでしょう。

ただ同時に「命令をする」ということ自体が持つ見えない力と脅威を忘れないでいることは、とても大事なことのように思えます。

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