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日本人が知らない事実ーー日本と中国の根本的な違い

中国と日本の根本的な違いは何ですか?なぜ日本は世界から認められた文明国とされ、中国はそれに数えられないのでしょうか?

私は小さい頃からずっとこの問題について考えてきました。私は中国で生まれ育ち、幼い頃から反日教育を受けていましたが、日本が教科書に書かれているほど悪い国ではないし、中国も教科書に書かれているほど素晴らしい国ではないと思います。日本に来て、日本人や日本社会と接触した後、この問題の答えを徐々に見つけました。今日は、歴史と社会の二つの視点から、日本と中国の違いについて分析したいと思います。


まず、私が注目したのは日本の正式な国名です。他の国々のように「共和」「民主」「人民」といった言葉を国名に加えているわけではありません。日本という名前は古くからあり、南北朝時代や戦国時代、徳川幕府、明治維新を経ても、依然として「日本」と呼ばれています。
日本という名前は、かつての呉や楚、齊のような地方国家と同じですが、そうした国々は既に歴史の中に消え去りました。すべての国家は統一され、大秦や漢、明や清に取って代わられました。日本だけがその名前を保持しています。

この意味で、日本は中国の古典的な政治体系の「生きている化石」と言えます。周朝の虚君制度を保持し、明治維新以前にはかなり強固な封建制度を維持していました。たとえば、薩摩や山口、加賀などの藩があり、実際には幕府将軍が日本を統治していました。地方の武士は代々、藩主に仕え、主君を持たない武士は浪人と蔑まれます。この分封制は地方共同体の結束を保ち、武士や職人の世襲制は社会の安定装置として機能し、人々はそれによって自分の人生に確信を持ち、社会の混乱や転覆を望むことはありません。

日本企業の終身雇用は、封建制度を一新したものであり、日本の職人精神も、世代から世代へと同じ職業が受け継がれる安定感から生まれています。みんなはもし今日が歌舞伎であり、明日が寿司職人であれば、市川海老藏や小野二郎のようにはなれません。
中国の王朝交代と比較すると、日本の安定は驚異的で、中国が王朝交代を繰り返したのは、「王侯将相寧んぞ種有らんや」という考えがあるからです。世に出るのは、実力次第であって、出自は無関係であるという意味です。そして、その言葉を口にすることができるのは、当時の王侯将相が勇気を持っていないからでしょう。みんなが考えているのは、「皇帝だって暴力で権力を握ったではないか。皇帝が暴力でできるのなら、私にもできるのではないか」ということです。
このような思考が蔓延すれば、社会に平和は訪れず、朝代が変わり続け、同じ轍を踏み続けることになります。

中国と日本の最大の違いは、中国には法統がないことにあります。厳密に言えば、秦始皇を含むすべての皇帝は僭主です。秦は西戎として中国に侵入し、周天子の権威を持つ他国を滅ぼしました。これはヒトラーがチェコやオーストリア、ポーランドを飲み込んだのと何ら変わりはありません。

自ら皇帝を名乗ることは、既に僭越の行為ですが、すでに誰も反抗しなくなり、登基の儀式を執り行い、新たな法統を築くとも言えるでしょう。漢が秦を打倒したのは、完全なる暴力革命であり、楚が兵を挙げたのは、国を復興し、多国体制を回復し、秦朝の一元化を終わらせることを目指していました。が、劉邦は機を見るに敏な者として勝利の実を盗み、秦の政治体制を基盤とする漢朝を再建し、これは事実上の第二の秦朝です。復国主義者、つまり封建主義者は、落ち着くことを拒否し、七国の乱を再び起こし、でも、漢の景帝によって残酷に鎮圧された後、抵抗を阻止することは不可能になった。僭主の節操も、ますます低下していった。漢の建国には、少なくとも劉邦の漢王の基盤があり、その創立は割と立派だった。漢朝から魏朝への過渡期には、古代の譲位の規則を使用して、皇帝の称号を魏の王、曹丕に譲った。秦始皇の伝国の玉璽の引き継ぎも、プロセスの必須の一部であり、その理由は簡単だ、後継者には法統、つまり合法性が必要だった。この中国の法統は、梁王の時代に完全に破壊されました。その後、北方の異民族政権は競い合い、中国のすべての政権を消滅し、中国の法統がもはや存在しないことを象徴していました。北方の鮮卑政権は、中国の正統を模倣する努力をし、北魏から西魏、北周、隋に至るまで、中国の政治制度を絶えず取り入れました。そこで、隋の統一は実質的に第二の中国法統を確立し、この法統は唐によって継承され、宋朝まで維持され、モンゴル人によって完全に壊されました。元朝は典型的な異民族の征服政権であり、彼らには中国の法統は必要なく、中国は彼らの多元帝国の一部に過ぎなかったです。モンゴル、新疆、チベット、満州の一部は、地元の部族制度を維持し、部族の首長を封じるか、宗教指導者を任命することで、間接的に統治を行います。

一方で、漢民族に対しては、官僚制度を利用して統治を行い、これは、イギリス人が香港、マレーシア、インドで行った統治方法と同様であり、まさにこの多様性と柔軟性が、統治の低コストと有効性を維持していた。そして、明朝は流民、異端宗教の軍事集団が建国した政権であり、漢民族の王朝であるが、実際にはモンゴル人以上に漢民族に対して厳しく暴力的な統治を行っていました。元朝、明朝、清朝の3つの王朝は、法統がまったくなく、すべてが暴力による征服者だったです。元朝と清朝は、満洲とモンゴルの貴族を保持し、ある程度の貴族階層を維持したが、朱元璋が貴族を全滅させた後、貴族の土壌は基本的に破壊され、皇帝以下、全ての人が平民のフラットな体制になりました。権力と財産を望む、すべての人々は、唯一の権力中心である皇帝に取り入るために派閥を組む必要がある、官僚間の壮絶な争いが生じました。清朝に至っては、皇権と平民の権力の区別だけでなく、満洲人と漢民族の民族的区別もあった。征服者としての満洲人には、中国人の支持も中国人の法統も必要なかった。なぜ士大夫は法統を重視するのか。それは法統の伝達には一連の儀式が必要であり、これらの儀式は士大夫を通じて伝承されるからである。

政権が法統を必要としない場合、士大夫は明らかに一度限りの使用品に過ぎない。中国の歴史は実際には、封建制のバランス力が次第に低下し、皇権が強化され、自由が消滅していく過程である。清朝が滅びる時、中国は法統を失っただけでなく、皇族もいなくなった。地方の邦国はフォーマットされ、漢民族の貴族は消滅され、残されたのは満洲貴族と漢民族平民の国であった。満州貴族を消滅させた後、残されたのは平民のみであり、中国は平民だけの国になった。地主、村の有力者、資本家、地方軍閥を除いて、大多数の国民はプロレタリアであった。このような国は共産主義にとって最も肥沃な土壌を提供し、中国が共産主義に占領されることは運命づけられていた。

では、なぜ日本は発展した文明国家になることができたのでしょうか?日本が幸運だったのは、海が大陸からの隔たりとなっていたことです。元の船隊は神風によって壊滅し、蒙古の日本侵攻は失敗に終わり、また、豊臣秀吉の朝鮮侵攻も失敗。これらの重要な出来事が、日本の歴史を中国の影響から分離し、日本に独立した発展の道を歩ませました。日本では、藩国体系が発展し、天皇は周の天子のように、国民の結束の象徴であり、祭祀や文芸に専念しています。
近代に入り、西洋の科学が伝統的な文芸を置き換え、昭和天皇や平成天皇は優れた生物学者として知られています。政権は職業政治家に委ねられ、かつては幕府が、今は内閣がその役割を果たしています。明治維新以前、地方の大名は春秋時代の諸侯のように、それぞれが自分の土地を持ち、広範な自治権を有していました。伝統が守られている社会は、必ず利害関係が複雑に絡み合っています。なぜなら、歴史的な権益を持つ各勢力がおり、互いに相手を排除することなく、自らの縄張りを持っているからです。長期にわたる駆け引きを通じて、その縄張りは時に拡大し、時に縮小し、多くの曖昧な地帯さえ保持しています。まさにこのような相互のバランスの中で、貴重な自由が蓄積されるのです。自分の権利を守る力がなければ、自由について語ることはできません。自由の状態では、不平等は自然な結果です。自然の法則による資源の不平等は、必然的に政治的・経済的地位の不平等を生み出します。有機的な社会では、不平等は存在しますが、互いの駆け引きの中で、すべての人が受け入れる体制が形成され、最終的には安定した状態に至ります。この安定した状態には不平等が存在するものの、不平等に対する補償メカニズムも存在します。

絶対的な平等を追求することは、社会を一から再構築し、強制的な平等を実現すること以外には不可能です。
しかし、そのような平等は、すべての人にとって大悲劇です。誰がそのような結末を望むでしょうか。歴史的な権益を持たないプロレタリアートだけが、自らの社会を覆されることを望むのです。プロレタリアートは何も持たず、すべてを打ち壊すことを渇望します。しかし、財産を持つ者は常に安定を望み、自らの社会に大きな変動が起こることを決して望みません。

したがって、共産主義革命は持続不可能です。革命の精神を維持する唯一の方法は、すべてを国有化し、財産を持つ者が生まれる土壌を根絶することです。しかし、これは社会に大きな損害を与え、最悪の結果をもたらします。それは、財産、体制、文化、芸術を問わず、すべての伝承を完全に破壊し、すべてを一から再び育てなければならないことです。
芸術の伝承と支援が中断され、家族の教育と人脈が断ち切られ、庶民の振る舞いには貴族の手本がなく、大衆の道徳には宗教の規範がありません。第二次世界大戦後、日本は無条件降伏を公言しましたが、実は一つだけ譲れない条件があり、それは、千年の歴史を経て苦労して築き上げた日本の国体を保持することです。この国体には、多くの伝統が蓄積されています。日本の国家法統と神性は皇族によって守られ、政治・経済・外交は政治家の家系によって守られています。また、日本の芸術と工芸の伝承は職人とその弟子たちによって守られています。日本人の生活、すなわち衣食住や結婚・葬儀などの儀式は、古くからの慣習と宗教によって守られています。この国体は中断されることなく、野心家によって覆されたり、侵略者によって破壊されたりすることはありません。起伏や争いはありましたが、基本的には小規模な権力の移動に過ぎず、国の根幹を揺るがすことはありませんでした。最も神聖なものは、侮辱されたり否定されたりすることなく、そのため人々は敬畏の念を持ち、ニヒリストに陥ることはありません。

国家と国民の歴史的な富が守られ、個々人の既得権益が尊重されたため、民主化と福祉化の後も、国民の権益は増す一方で減ることはありません。そのため、人々は自分たちの小さな共同体と国家という大きな共同体を深く愛しています。この深い愛から、私が見たすべてのものが生まれます。窓は明るく、ほこり一つなく、道に落ちたものを拾うことはない。敬語は発達しており、お辞儀は習慣となっています。

人々は自分の仕事をきちんと行い、他人に迷惑をかけず、不正を働かず、抜け道を探さず、性と暴力も法律に従い、法律の定める範囲内で行われる。これらすべてが、私たちが言う「文明」を形成しています。文明は守る必要があり、日本人は守ることに長けた民族です。中国では既に忘れ去られた牧谿和尚は、日本では尊敬される禅画の大家となり、朱舜水は日本に亡命し、水戸徳川家の儒学の国師として崇敬され、中国の燕楽は日本に伝わり、雅楽として世代を超えて受け継がれ、今に至ります。中国の茶道は日本に伝わり、哲学化され、芸術化され、精妙な器物と儀式の美学を育んできました。

中国が忘れ去ったり失ったりした文明の断片は、日本に渡ると精錬され、保存されています。中国が広大で物資に恵まれているため、それを大切にしなく、結局は何も残らないのです。日本が中国から離れているため、少しずつ積み重ねて文明の火種を保存してきた。

日本に来てから、なぜ日本人がこんなにも文明的で礼儀正しいのか不思議に思いましたが、答えは実に簡単です。日本人は文明の中で生活しているからです。この文明は古来より続いており、大和民族の自然神教を蓄え、東北アジアのすべての優れた文化を吸収し、西洋の自由秩序と科学精神を取り入れた巨大な歴史的結晶です。日本人は自分たちの歴史を裏切ることなく、有機的で、継続的で、安定した共同体の中で進化を遂げてきました。

福沢諭吉は言いました。「私の慶應義塾が一日でも存在する限り、日本は文明世界の列に立つだろう。」私はこの言葉に長い間感銘を受けました。日本の今日の文明は易しく得られたものではありません。日本人はペリーの黒船の来襲に恐れをなし、侵略者を追い払いたいと願いながらも技術的に劣っていたため、最終的には屈辱的に国の門を開くしかありませんでした。しかし、日本人は自分たちの努力によって文明国家となりました。


福沢諭吉


私は日本を非常に羨ましく思います。なぜなら、私の祖国である満州国も、かつては日本と同じく輝かしい文化と優れたエリートを持っていたからです。しかし、ソ連と中国の侵攻により、満州国は文明国家になる機会を失いました。満州国の文化は中国人の圧迫の下で土壌を失い、約40万の満州国のエリートが新京の包囲戦で命を落とし、満州国の生命力は消え去り、残されたのは一般市民と中国から来た植民者だけでした。これらの植民者は、先進だった満州を、野蛮な中国東北に変えてしまいました。

今日の日本は、かつての師であるイギリス人やアメリカ人でさえ、日本文明の前には感嘆するしかありません。ましてや既に野蛮化したと言われる中国人にとってはなおさらです。

中国が共産主義を選択し、すべてのエリートを抹殺する形で社会を再編した時、中国が文明を持つことは不可能になったと言えます。中国が共産主義に支配されるようになったのは、伝統を守る可能性を持っていたエリート階層がこの土地を放棄したからです。かつて中国に対して所有権を持っていた皇族は追放され、そのため、中国自体はもはや実際に利益を持つ関係者の実体ではなく、抽象的な設計に過ぎません。有機性を持たない政治的実体は、抽象的な設計やイデオロギーに依存するしかなく、文明を実現することはできません。

なぜなら、文明は規範から生まれ、規範は伝統から来るものであり、伝統は生活に浸透していて、耳に入り目に映るもの、隣人間、親子間、上下関係の行動規範によって形成されるからです。文明の本質は徳であり、徳の原義は道徳ではなく、自然の法則に従って行動することです。天は報いをもたらし、万物にはそれぞれの法則があり、自然には秩序が生まれます。自然を尊重し、伝統を尊重し、貴重な文化遺産を守り、自由の秩序を保護すること、これが徳です。この基盤の上にはもちろん、豊かな道徳が育まれ、繁栄する国が生まれます。ルールを守らず、他人を尊重せず、歴史的伝統を無視し、利益集団を軽視する国家が文明を生み出すことは不可能です。

日本の街中では自転車シェアリングをあまり見かけません。多くの中国人はそのために日本人を保守的で、革新を恐れると嘲笑しますが、それは彼らが日本社会を理解していないからです。道路は公共財産であり、企業や個人は他人の許可なく無数の自転車を勝手に停める権利はありません。想像してみてください、一夜にして自転車の山が東京の地下鉄出口に積み上げられたら、日本人がどれほどの驚きと怒りを感じるか。これが、すべての商業革新が中国のようなフォーマットされた土地で行われる理由でもあります。なぜなら、損なわれる利益集団に対する補償をほとんど考慮する必要がないからです。電子商取引が急速に進展し、ネットショップの店主も消費者も喜びに満ちていますが、市場から完全に排除された伝統的な店舗のことを覚えている人は誰もいません。彼らの利益は誰も気にかけず、これらの人々は失業したり、破産するかもしれません。これら全てが経済や社会に逆影響を及ぼし、最終的には他の面でのあなたのコストを増加させるかもしれません。

まるでブラジルの蝶が翅を扇ぐと、北米でハリケーンを引き起こすかのように、伝統を守りつつゆっくりと変革すること、伝統を捨てて急速に変革すること、どちらがより良く、どちらがより悪いのか、私はそれが歴史によって答えられるだろうと思います。しかし私個人としては、整然として美しい市容を守るために、いわゆる便利さを犠牲にすることを選びたいと思います。また、工事現場や私有地の所有者の神聖な権利を尊重します。すべての人がこのような選択をし、すべての人が自分以外の利益集団を尊重する心を持っているならば、徳は築かれ、文明は守られるでしょう。これこそが日本人の真の宝物です。これを失ったら、日本も他の国々と同じになってしまうでしょう。

東京の街角で、もはや日本の伝統的価値を守ろうとしない日本人を見るたびに、私は非常に悲しく感じます。なぜなら、私の心の中で日本は最も完璧な国だからです。

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