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『燃え尽きない柴』

2024年3月10日

 創世記はヨセフがエジプトで再度、兄弟たちを赦しその子孫たちの繁栄を約束した後に100歳の生涯を閉じるところで終わっています。今日は出エジプト記からモーセが選ばれるところについて考えていきたいと思います。

ヨセフの時代から時が流れてエジプトではヨセフの功績を知らないファラオが誕生して増えすぎたヘブライ人(イスラエル人)を警戒するようになります。その結果、イスラエル人は虐待さる重労働で酷使されていくようになります。(出エジプト1:8~10)それでも増え続けるイスラエル人に対して脅威を抱いたファラオは生まれたイスラエル人の男の子をナイル川へ放り込むよう命じて多くの赤子が殺されたと思われます。
ところが、そのなかのひとりの男の子がエジプト人の目から隠されて、防水処理されたパピルスの籠に入れられナイル川の葦の茂みに隠されます。そこへ水浴びしに来た王女が赤ん坊を見つけて、イスラエル人だと気づきますが憐れみ王女の子として育てられることになります。しかも、育てるために乳母として呼ばれたのは赤ん坊の母親でした。王女は赤ん坊を「引き上げる」という意味の「モーセ」と名付けました。(出エジプト2:1~10)
ここには神の意図を感じます。エジプトには偉大なナイル川を創造したのはファラオでありナイル川はファラオのものであるとし創造主であるとされて神格化していました。エゼキエルは神がファラオをナイル川のワニ(巨獣)に例えていることを記しています。(エゼキエル29:1~3)実際、ファラオはエジプトでワニの頭をもつものとして描かれることがありました。神はエジプトの王妃を通してモーセをその理から引き上げたとも言えるのではないかと思います。

ところが、モーセは40歳になった時に同胞のイスラエル人を助けたことによって恵まれた環境から窮地に立たされてしまいます。この部分は使途言行録によくまとめられています。

■使途言行録7:23~29
四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。

ファラオに命を狙われるようになったモーセは失意のうちに遠くミディアン人の地へ逃れていきます。そこでモーセは妻ツィポラを向かえ40年間、羊を飼って暮らすようになります。モーセは子供を得て名前をゲルショムと付けました。「外国で寄留者となっている」との意味です。(出エジプト2:22)

しかし、やがてモーセはそこで神の山といわれるホレブ山(シナイ山)へと導かれるのです。

■出エジプト3:1~6
モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

神はモーセにイスラエル人をエジプトから連れ出しカナンの地に導くように告げます。
映画などで描写されるモーセは実に勇ましく、堂々とした指導者を思わせますが、聖書の細かな点を拾って行く時にモーセの心の裏側を探り知ることが出来ます。彼は神の召しについて再三、尻込みして「他の人を遣わして下さい」「私は話すことが苦手です」などと断ろうとするのです。あまりの弱腰に神も怒り、兄弟のアロンを代弁者として用いるよう言い、ようやくモーセは従うのです。(出エジプト記3:11~4:17)

こうしてモーセは義理の父エトロに「エジプトにいる親族のもとへ帰らせてください。まだ元気でいるかどうか見届けたいのです」と嘘をついてエジプトへと出発します。
モーセはもうエジプトで命を狙われることはないと神に後押しされて進んでいきますが、途中、不可解なことが起こります。

■出エジプト記4:24~26
途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。

神が突然、モーセを殺そうとされたのです。
理由は何も記されていませんが、妻ツィポラのこれまた不可解な行動によって赦されます。前後になにも記されていないのでよくわからない部分になっています。皆さんはこの箇所をどう解釈されるでしょうか。


【まとめ】


出エジプトに関しては映画化などの影響もあって海を割る壮大な背景とともに堂々としたモーセがイメージとして誰の中にもあるのではないかと思います。モーセは神に選ばれていた人でイスラエル人でありながらエジプトの王宮で育てられあらゆる教育を受けたとあります。(使途言行録7:22)
恐らくモーセは同胞のイスラエル人を救えるのは自分をおいて他にいないということを自覚していたと思います。そのために神はエジプトで高度な教育を受けさせ、同胞を救い出す知恵を与えようとされたということを信じて疑わなかったとのではないでしょうか。この時のモーセは40歳になっておらず、若くて気力と自信に満ちていたのだと思います。
しかし、その後に同胞のイスラエル人を助けたつもりが、その同胞に受け入れられていないことを思い知らされ、エジプト人を殺してしまったことでエジプト人からも追われる身となってしまいました。そのため、逃げたミディアンの地で40年間、暮らすことになってしまいましたが、妻と子供を得たことで平安を得ていたのです。

80歳になる頃に神はホレブ山(シナイ山)で燃える柴のなかからモーセに語り掛け、ついに同胞イスラエル人を解放して導きだす者として召し出されますがモーセの口から出たのはこんな言葉でした。
「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
今更、私はもう関係ないでしょうと言いたかったのではないでしょうか。
エジプトに出発する際も義理の父エトロに嘘をついた形になっていますが、「親類の様子を見てくる」というのはモーセの本心だったと思います。恐らく、モーセはすぐにミディアンの地に帰ってくるつもりだったのではないでしょうか。
80歳のモーセのヘブライ人(イスラエル人)としてのアイデンティティは燃え尽きようとしていたのです。

ですから、神に対して偽って行動していたモーセを神が咎めたのだと思います。でも、ツィポラはよくできた妻で、息子ゲルショムにその場で割礼を施しミディアン人として生きるのを決別してイスラエル人として生きる覚悟を示したのです。モーセとしては逃げ道をふさがれた形となりました。モーセは息子に「寄留者」という意味のゲルショムという名前を付けていましたが、ここでイスラエル人として寄留者、約束の地を目指す者になったのです。
神の山ホレブでモーセは燃える柴を見た時、落雷でもあったのかもしれないと思ったかもしれません。きっと、自分と同じようにすぐに燃え尽きてしまうだろうと思いながら眺めていたのではないでしょうか。ところが、一向に燃え尽きる気配がないのを見て不思議に思いました。
そこに神はモーセの姿を映し出していたのです。

エジプトに行きイスラエルの民を導いていくモーセの生涯は、その後も苦悩と苦労の連続であったに違いありません。ですが、妻ツィポラの機転でヘブライ人(イスラエル人)としてのアイデンティティを取り戻した後、神が燃やされるモーセの心が再び折れることはありませんでした。

神が人を用いようとされるタイミングは不思議です。人が「今こそ自分が用いられるその時だ!」と思って神に必死に願い求めても、空しくチャンスは過ぎ去り、せっかくの好条件も無に帰するようなことがあります。そうしてクリスチャン的燃え尽き症候群に陥ってしまうのです。しかし、人の目ですべての希望が断たれたように見えても神にとっては「遅い」ということはありません。私たちには見えないところでも神は働かれすべての準備は整えられていくのです。また、神はわたしたちの経験したすべてのことを無意味に捨て置くこともありません。
神に用いられる点で最も大切なところは、神が燃やされるのであって燃えるのは私たちではないということです。

■エゼキエル36:26~28
わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。


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