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『シナイ山へのルート』

2024年4月7日

 今日は少し形を変えてエジプトを脱出した後のイスラエルの民がたどった経路について考えていきます。
神はイスラエルの民が戦いを恐れてエジプトに引き返そうとしないためにカナン(現イスラエル)の地まで最短の経路だった地中海沿いの道を避けたとあります。(出エジプト13:17~18)
ここで「神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」(新共同訳)と記されているのですが、「葦の海」が長らく「紅海」と誤訳されていたために民が進んだルートは住んでいたゴシェンの地域から南南東へ向かい、紅海で海がわかたれてその中を民が進んでシナイ半島のシナイ山に達したと伝統的に考えられています。

シナイ半島にあるシナイ山とされている山

しかし、現在シナイ山とされている山には多く懐疑的な目が向けられていて本当のシナイ山は別にあるのではないかとも考えられています。そうなるとこれまで民が歩んだと考えられてきたルート(地図上の赤点線)が大きく変わることになってきます。

日本聖書協会「エジプト及びシナイ半島」地図より

現在のシナイ山はローマ帝国時代にキリスト教が公認されるようになった際にコンスタンティヌス帝の母ヘレナがキリスト教にゆかりがある場所を保護し礼拝堂を建設したといわれており、シナイ山もそのひとつでした。そのシナイ山とされた山はシナイ半島の南部に位置しますが荒廃した環境にあって、イスラエルの民が200万人も宿営できる平地がないこと、シナイ半島は出エジプトの時代にエジプト領であったこと、パウロがガラテヤ書のなかでシナイ山はアラビアにあると言及しています。(ガラテヤ4:25)
出エジプトで誰もが知るモーセが杖をかざして海を割るシーンですが聖書はこう記しています。

■出エジプト14:1~4
主はモーセに仰せになった。「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ。するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」彼らは言われたとおりにした。

つまり、民は道に迷ったように見せかけてエジプト軍を誘いだしたのです。地図でいうとゴシェン(地図表記では「ゴセン」)から紅海北端まで約170km(この聖書地図は古いせいか距離の表記が少しおかしい)程度で当時の感覚としては割合近い距離ではないかと思います。民は子供も老人もいましたから10日前後かかったと思いますが近すぎるように思えます。
また紅海北端あたりには銅の鉱山(シナイ半島側)がありましたのでエジプト軍の駐留もあったと推測します。イスラエルの民を追うのに後ろからのみではなく、包囲できる位置にあったのではないかと思います。
さらにエジプト軍がイスラエルの民に迫った時に非常に民は動揺してエジプトに帰ると言い出します。

■出エジプト14:13~14
モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

こうして海を渡るのですが、エジプト人をもう見ることはないと言っているのに渡った先がエジプト領のシナイ半島というのはおかしな話です。確かにシナイ半島はほとんど不毛の地でしたから街はなく、南端にエジプト軍の要塞、紅海とアカパ湾の北端に軍が配置されていたと思われますが、あとはほとんど人がいなかったと考えられます。それでもアカパ湾北端、あるいは国境付近ではエジプト人を見ずにカナンに向かうのは無理な話です。

シナイ山についてもう少し見ていきたいと思います。
シナイ半島は砂漠気候にあり年間の雨量は50mmに満たない場所が多く、雨は年に数日しか降らず南部は降った雨も大地に染み込み涸れ川となったワジが残ります。涸れ川の底に地下水が存在するところもありますが大量の水を安定して得るのは非常に難しい環境となっています。
JICAは1995年にシナイ半島南部の地下水開発調査を行っています。シナイ半島の南部にベドウィン(遊牧民)が定住化できる可能性を探るためでした。それによると深い帯水層に膨大な化石水があることがわかりました。900mぐらいの井戸(通常の井戸は数10m)を設置することでベドウィンの定住の可能性を報告しています。
このような環境でシナイ山の付近にいたアマレク人とイスラエルの民は戦ったことになります。(出エジプト17:8~16)当時、深い井戸を掘る技術もないアマレクの人々がベドウィンも暮らせないエジプト領のシナイ山付近にいたとは考えられないのです。アマレク人はパレスチナ南方にいたエドム人と同じエサウの子孫でしたからエジプト領の不毛な地にいたというのも不自然です。

JICAの「アフリカ地域地下水開発・利用調査研究(エジプト)」より

参考までにシナイ山へのルートにはモーセゆかりの井戸などの水源がありますが、恐らく巡礼路として定着した後代に掘られたものではないかと個人的には考えます。

では、本当のイスラエルの民のルートとシナイ山はどこにあるのかという疑問が出てきます。契約の箱を発見した(真偽不明)として有名になったアメリカの考古学者(アマチュアとの声もあり)ロン・ワイアット氏はモーセが海を割ったのは紅海ではなくアカパ湾だったとして、海底から古代の戦車の車輪などが多く発見したと公表しています。しかも、その辺りのアカパ湾は水深1500mほどあるのですが、海底100mに橋のような道ができておりそこで戦車の車輪などが見つかったとのことです。
そして、渡った先のサウジアラビアのラウズ山付近でシナイ山の痕跡も見つけたとしており。そのラウズ山こそ本当のシナイ山だと主張しています。
非常に興味深い話なのですがロン・ワイアット氏は考古学の学会からあまり相手にされていないようで詐欺師だという人もおり、発見の内容を信じていいものかどうか正直、わかりません。非常に面白い発見をいくつも公表しているのですがあまり鵜呑みにしない方がいいかもしれません。
とはいえ、モーセたちがアカパ湾付近を渡ったという説に対しては私も同意見です。

出エジプト記に出てくる街の名前はどこにあったのか特定ができていないためルートの判断が難しいのですが、シナイ半島の地形を考えるとエジプトは一部鉱山を除いてシナイ半島自体にそれほど価値があるとは思っていなかった筈です。ですからシナイ半島の要所は紅海北端とシナイ半島南端、それから国境だったアカパ湾の北端だったのではないかと推測します。そしてエジプト中心地からアカパ湾の北端までは軍が行き来できるルートがあったのではないかと考えます。実際、紅海北端からアカパ湾の北端までシナイ半島を東西に縦断する商業ルートがあったことがわかっています。
でも、他国の侵略などを考えるとこの路はもう少し重要なルートだったのではないかと思います。仮にシナイ半島に船で他国が侵略しても半島には大きな街がないため補給路が無く侵略したとしても軍隊は自滅します。ですから、シナイ半島南部には重要な路というのはほぼ無かったと思います。しかし、東側の国境付近は事情が違いますのである程度の軍の駐留とそれを動かす路は東西にあったと考えるのが自然です。イスラエルの民はそこを東へ向かったのではないかと私は思います。
先に読んだ出エジプト14:1では「ミグドル」という言葉がでてきますがこれは「塔」を意味しています。つまり、敵の侵略を監視する国境付近にあった監視塔、もしくは監視可能な高所だったのではないでしょうか。そう考えると、アカパ湾北端を過ぎようとしていたイスラエルの民に対して神はシナイ半島南部方向へ引き返すよう指示し、ファラオに「荒れ野が彼らの行く手をふさいだ」と思わせる内容に辻褄が合ってくるように思います。イスラエルの民は方向を転じてアカパ湾の西側をシナイ半島に向かったため、ファラオは追い込めると踏んで軍隊を出して追ったのだと思います。

次にシナイ山の位置ですがミディアンの地(アカパ湾東側)に逃れていた時に義理の父であるエトロの羊飼っていて、羊の群れが荒れ野の奥に行くのを追ってホレブ山(シナイ山)に着いたとあります。(出エジプト3:1)ミディアンの地からシナイ半島のシナイ山まではアカパ湾の北端をまわらなければならないので少なくとも250kmもあります。羊を追って移動する距離ではなく、モーセはエジプトから逃げたのにエジプト領に入るとは考えられません。そうなるとパウロが言うようにシナイ山はアカパ湾の東、アラビアにあった可能性が高く、ミディアンの地から遠くない距離にあったと考えるとラウズ山が有力と言えるかもしれません。

このバイブルクラスでもお話しさせていただきましたがパウロは本格的な伝道活動に入る前の約10年間、アラビアに行っています。(ガラテヤ1:17)何のために何をしに行ったのか書かれていないので謎なのですが、パウロはシナイ山に行ったのではないかと私は思っています。エリヤもイゼベルに命を狙われた時に恐れを抱いて逃げ、イスラエルの民が契約に背いてバアルに仕えたことに意気消沈して40日40夜歩いてシナイ山にたどり着きました。そこで神はエリヤに声をかけられています。(列王記上19:1~18)パウロもまた、ユダヤ人が本来の契約を捨てて歩んでおり、自身もそのような者だったことに悩みシナイ山に来たのではないかと思います。
少し話が脱線していますが、パウロはシナイ山の契約に絡む話で次のように語っています。

■ガラテヤ4:21~26
わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。

パウロは古い契約の解釈によって縛られていた自分とキリストによる新しい契約によって自由にされた自分を比較してこのことをガラテヤの人たちに言ったのです。ですから、それを言い切るだけの体験をアラビア、つまりシナイ山でしたのだと、シナイ山でキリストに会ったのではないかと私は勝手に考えています。

これらのことからシナイ山はアラビア半島のアカパ湾東側附近にあったと考えます。そうすると、イスラエルの民はシナイ半島の商業ルート(シナイ半島中央部)を東に横切り、アカパ湾北端でシナイ半島側に切り返したと考えます。ファラオはそこでイスラエルの民を追い、アカパ湾北端を抑えることで民をシナイ半島に封じましたが、アカパ湾の海を渡って民はアラビア半島に抜けたのではないでしょうか。
そして、その先に本当のシナイ山があったのではないかと思います。

勝手に推測したシナイ山へのイスラエルの民がたどったルート

勿論、私が勝手に考えてみた結果ですので正しいかどうかはわかりません。これから、考古学上の発見があって少しずつ真実が解明されていけば楽しいなと思います。

今日は「まとめ」はない形でシナイ山へのルートについてお話しさせていただきました。もし、この地域を旅することがあったらまたいろいろと考えながら見て回りたいと思います。


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