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『主の過ぎ越し』

2024年3月24日

 イースターを前に受難週でこの話ができることを感謝したいと思います。
前回、イスラエルの民がエジプトを脱出するまでの話をさせていただきましたが、今日は最後の災いとして起こった主の過ぎ越しについてお話しさせていただきます。エジプト全土を襲った初子が殺される災いは他の災いと異なってイスラエルの民が住むゴシェンの地域にも及びました。他の災いはイスラエルの民というだけで難を逃れていましたが最後の災いは明らかに違うものでした。これは人に対しての神の裁きを意味していたからです。そのためこの災いから逃れるために子羊を犠牲にする必要がありました。

■出エジプト12:1~14
エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。

これが過ぎ越しの祭(ペサハ)のルーツであり、私たちが教会で行う聖餐式へと繋がっていきます。
キリストが十字架にかかる直前に弟子たちと最後の晩餐を行いますが、その際の過ぎ越しの祭がどのようにして行われたか残念ながら聖書からは探れませんが、現在、ユダヤ人の間で行われている過ぎ越しの祭を紹介したいと思います。調査によると99%ものユダヤ人たちがこの祭を守っているというから驚きです。祭は初日の晩餐からスタートして子供たちも参加します。
過ぎ越しの祭には式次第(セデル)があって決められた通りに晩餐は進められます。(※セデルは多少、その家庭で異なるようです)

①    カデッシュ(聖別)
  4杯のうちの1杯目の葡萄酒は聖別を意味し、感謝を捧げて飲みます。
②    ウレハッツ(手を洗う)
  家長が清めのために手を洗います。
③    カルパス(野菜)
  全員がカルパスを塩水に浸して食べる。緑の野菜は、命を象徴し、塩
  水は涙の象徴(一説では紅海の水)です。これによって、先祖たちの
  人生は涙に満ちていたことを記憶するのです。
④    ヤハッツ(パンを裂く)
  食卓に真四角の布製の袋が置かれていて。その袋の中には3枚のマツ
  ォット(クラッカーみたいなもので単数形では、マッツァ)が重ねら
  れていて1番上のマツァは神を象徴し、1番下のマツァは人間を象徴
  します。真中のマッツァは仲介者、つまり祭司を象徴しています。家
  長がその真中の1枚を取り出し感謝して2つに裂きます。半分は亜麻
  布にくるんで部屋のどこかに隠します。隠された半分は「アフィコー
  メン」と言われます。(デザートという意味)
⑤    マギッド(物語)
  家長が子供たちに出エジプトの物語を話して聞かせます。
⑥    ラハッツ(手を洗う)
⑦    モッツィ・マッツァ(パンへの祈り)
  家長が裂かれた半分のマツァを感謝して全員に配ります。
⑧    マロール(苦菜)
  苦菜と訳されるマロールというのは、わさびか西洋わさびですが、こ
  の苦菜はエジプトでの奴隷の苦難を象徴しています。
⑨    コーレフ(間にはさむ)
  マッツァに苦菜やハロセット(ナッツの練り物:エジプトでのレンガ
  作りの象徴)などを挟んで食べる
⑩    シュルハン・オレフ(食卓)
  夕食を食べます。
⑪    ツァフン(隠された物)
  残りの半分のマッツァ(アフィコーメン)を子供たちが捜します。見
  つかると全員に配られ食べます。
⑫    バレフ(食後の感謝の祈り)
⑬    ハレル(賛美)
⑭    ニルツァ(最後の祈り)


ペサハ

これはユダヤ人が過ぎ越しの祭を行う際に行っている内容と彼らが認識している理解です。多少、形は異なるかもしれませんがこの祭りの形式はバビロン捕囚後に形がある程度定まったと考えられていますので、最後の晩餐も大筋はこのように行われたのではないかと推測します。
私はよくユダヤ人の文化を守りながらキリストを信じるメシアニック・ジューの考え方などを参考にユダヤ人について考えますが、今のクリスチャンが過ぎ越しの祭などを行う必要があるかと問われたら、答えはNoだと思います。セデルのこの形は旧約聖書に記されていません。ただ、ユダヤ人のアイデンティティのなかにはキリストがメシアであるという証がはじめから刷り込まれていると私は考えます。なので、彼らの文化の意味については知っておくべきだと個人的に考えます。

この最後の災いと主の過ぎ越しは人に対する最終的な神の裁きと贖いを示すということをお話ししてきましたが、実はもうひとつユダヤ人(イスラエルの民)に対してのキリストの救いがこの祭のなかに予言されています。この祭が「代々にわたって守るべき不変の定め」というところが非常に大切なのです。
皆さんも考えてみてください。


【まとめ】


先ほどのセデルはユダヤ人が伝統的に守っているものですが、本当の意味で何を示すかはまだ時が来るまで隠されています。重ねられた3枚のマツォットから真中のマッツァが引き出してキリストは言われました。

■ルカ22:19
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

3枚のマツォットは種なしパンですから1番下のマッツァが「人間」を指すというのは誤りではないかと思います。罪がないことを示すのですから「父なる神」「キリスト」「聖霊」を示すものだと思われます。キリストとしての真中のマッツァが引き裂かれ十字架につけられますが、半分は布に包まれて隠されます。
家長は子供たちに過ぎ越しの祭をなぜ祝うのか語りきかせなければなりません。

■出エジプト12:26~27
また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。

そして、子供たちが隠された半分のマッツァ(アフィコーメン)を探し出して見つけます。「継承」はペサハの非常に大切な面です。
これはイスラエルの民の子孫がメシアであるキリストを見つける時がやってくることを示しています。
こうしてイスラエルの民が救われて全世界に救いが及ぶようになるのです。

イスラエルの子孫はどのようにキリストを見つけるのでしょうか。
出エジプトは犠牲となった子羊がキリスト・イエスであることを証しています。
過ぎ越し祭が行われるニサンの月の10日には犠牲となる子羊(もしくは山羊)を用意することが定められていました。キリストが十字架にかかる直前にエルサレムに入城したのはニサンの月の10日でした。子羊は傷のないものでなければなりませんでした。キリストは不当な裁判にかけられましたがローマの総督ピラトは祭司長や群衆に対して「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と宣言しました。
また、少し複雑ですが過ぎ越しの祭の次の日曜日は大麦の収穫による初穂の祭と定められていました。その日曜日はキリストが復活したイースターです。

■1コリント15:20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

過ぎ越し祭では並行して種入れぬパンの祭を14日から7日間に渡って行うよう定められて、罪を象徴するイースト菌の入ったパンを食べることができないだけでなく、家の中にパンのかけらも残すことができないため祭りの前には家中の大掃除をします。これはキリストによって罪が完全に取り除かれたことを意味します。バプテスマのヨハネはキリストについて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)と言っています。

この子羊ですが過ぎ越し祭のなかで食べる時に骨を折ってはならないとされていました。エジプトを脱出しようとする時に急いで食べよというわりに何とも不自然な命令ですが、それは十字架に掛かるキリストを意味していました。
十字架の刑は手足を太い釘で打たれる痛々しさが強調されるのですが、実際はもっと過酷な刑でした。
釘は致命傷に至らないよう、重要な血管をさけて打たれ、十字架につけられた人は長時間に渡って苦しむことになります。絵画ではよく十字架上のキリストの足が「く」の字に曲がって描かれているのを見ると思いますが、時間とともに疲れと足の痛みのため足が曲がります。すると、身体が下がり胸部が圧迫されるため呼吸が困難になってきます。そのため呼吸ができない苦しさに耐えられず痛みをこらえて足を延ばすのです。その時に手足は激痛に襲われますが呼吸ができない苦しさに抗うことができないのです。それを延々と数日、繰り返さねばならず、十字架に掛けられた人は活かされながら散々苦しんだ末、最後は両足を折られました。足が折れてしまえば伸ばすことも出来ないため窒息して死ぬことになるのです。

■民数記9:12
翌朝まで少しも残してはならない。いけにえの骨を折ってはならない。すべては過越祭の掟に従って行わねばならない。

キリストは十字架に架けられたその日に息を引き取ったので足が折られることはありませんでした。死因は極度のストレスのための心臓破裂であったと推測されています。

■ルカ22:42
父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。

オリーブ山で祈ったキリストは苦しみのあまり十字架を避けたいと願いました。
しかし、キリストが裂けたいと願ったのは十字架が残虐な刑であったからではありません。人には理解できない、それよりもはるかに過酷な苦しみに置かれていたのです。

キリストの十字架の犠牲は救われる者にとっては「贖い」ですが、そうでない者にとっては「永遠の滅び」になります。言い換えるとキリストは一方で愛する者を永遠の滅びに定めなければならなかったことになります。この苦しみというのは人の理解を越えたものです。完全な愛をもつ神にしかわからないのです。
このキリストの言葉を不思議に思ったことはないでしょうか?

■ルカ12:51
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。

私はキリストの苦しみをよくあらわしている言葉だなと思っています。
出エジプトの出来事はこれらすべてが写し絵として描かれていることをお話しさせていただきました。過ぎ越し祭を私たちが祝う必要はありませんが、聖餐式でパンを取り、盃を飲むときにこのことを思い起こしていただければと思います。

■ヨハネ5:39
聖書はわたしについて証しをするものだ。


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