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わが心の高畑勲

今日も今日とて、高畑勲さんの話である。

僕は、ずっと幼い頃からスタジオジブリの作品を見てきて、当然ながら宮崎駿監督作品も高畑勲監督作品も両方とも見たことがある。しかし、「スタジオジブリ」と聞いたら「宮崎駿」と答えたくなるくらいには、『もののけ姫』だとか『天空の城ラピュタ』だとか『風の谷のナウシカ』が好きで、それはもう飽きるくらい見てきたのである。

一方、高畑勲さんについては、「スタジオジブリの監督で『平成狸合戦ぽんぽこ』を作った人」というざっくりとした認識はあったものの、彼の偉業を本当に理解したのはほんの2年前のことなのだ。
夏の休暇のある日、僕は年の離れた弟君と「スタジオジブリ作品で見ていないものをこの機会に見てみよう」と企画して鑑賞会を開いたのである。弟君は『平成狸合戦ぽんぽこ』をほとんど見たことがなく、僕も大昔に見たきりだったので、二人ともほぼ初見の状態でこの作品を鑑賞した。
昔見た時とは段違いの情報量の多さに終始驚かされっぱなしで、僕はすっかり高畑勲演出に心を掴まれてしまった。

そこから数ヶ月の間に、作品を片っ端から鑑賞したり、母校に絵コンテやら著書やらの資料を借りに行ったりした経緯などは割愛するけれども、それからというもの、あらゆる作品に対する自分の見る目がガラリと変わってしまったのは間違いがない。そのくらい衝撃を受けたのだ。

高畑勲さんの姿勢で一番特徴的と言えるのは、作品における疑問や謎に対する徹底的なアプローチだ。

「原作にある○○っていうのは何を指しているんですか?」
「ここに立ったらどういう景色が見えるんですか?」
「この時点で、この人物は一体どんなことを考えているんでしょうか?」

こうした、見ている側からしたら「どうでもいい」「誰も気にしない」と思うようなことが、作品を見てみると圧倒的なリアリティを持って存在感を放っていたりする。
高畑勲さんの演出した『母をたずねて三千里』というアニメは、イタリアの作家:エドモンド・デ・アミーチスによる『クオーレ』が原作である。しかし、アミーチスは舞台となったアルゼンチンには一度も訪れたことがなかったという。
「原作に登場するアンデス山脈は、そこからでは見えるはずもない」というようなことが実際にアルゼンチンを取材したことによって明らかになったのだが、これも高畑勲さんが現地にロケに行こうとしなければ分からなかったことで、もしスタッフが空想のままに作っていたのなら、あれほどリアリティのある広大なアルゼンチンの情景を描き出すことはできなかったであろう。

また、そうした「これは一体どういう意味ですか?」という疑問に対するアプローチは作品制作以外の場でも変わらなかったらしく、「『風の谷のナウシカ』のプロデューサーを引き受けてください」と言われて「プロデューサー……プロデューサーっていうのは一体なんなんでしょうか?」と考え始め、何日も説得されている間に『プロデューサーとは何か』というノートを一冊書き上げてしまったのは有名な話だ。
アニメーション監督:押井守との対談の際も、押井監督が「高畑さんの日常を描く表現に影響を受けた」と言ったところ、高畑さんに「あなたの言う“日常”っていうのは、一体どういう意味なんですか」と問い詰められて困ってしまった、という話もある。

流石にここまでではないにしても、何かに対して疑問を抱いた時、これくらい徹底的に追及していく姿勢は見習っていきたいと思う。
とりわけ、作品というのは、「何かを表現したい」という人の意思が介在しているものなのだから、本来はそのくらい真剣に向き合うべきなのだろう。

見る側が真剣になれば、作る側だって真剣になるのだ。
それは逆もまた然りである。

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