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面白さの源

世の中には、面白い人がめちゃくちゃたくさんいる。

「面白い」という言葉にも色々な意味があるけれども、僕としては、自然とその人の言動に意識が向いてしまうような、見たり聞いたりしているだけで楽しくなってくるような、そういう特質を持っている人を「面白い人」というような気がする。

なので、当の本人がそれを面白いと思っていなくても、みんなとちょっとズレた考え方をしていたり、何かに並々ならぬコダワリを持っていたりすると、周りから見てどうしても面白くなってしまう人はいる。
本人が良いと思っていても嫌だと思っていても、それはその人の特性だ。人によっては、周りからズレてしまうのが嫌で、それを人に見せられなくて隠してしまうこともある。

だから、「面白い人」になろうとするのは至難の業だ。
無意識レベルで面白い人は、なろうと思わなくてもすでに面白くなってしまうからだ。
戦略的に「面白いことを言ってやろう、やってやろう」と考える場合は、その「面白い」の域に到達するために頑張って努力をしなくてはいけない。
ズレるのを嫌がって自分で自分の面白さを隠してしまう、というのはそういうことだ。
どういう人がどういうものに興味を持って、どういうことをされたらどういう反応をするのか。そういう現実的で自分の感情とは全く関係のないデータを集めて、それに合うように自分の形を変えたりする必要があるだろう。
そういうことを楽しいと思える人はあまりいないのではないか。
(もしいたら、それはすでに面白い人である)

では、もっと素直に面白くなりたいならどうすればいいか。

まずは、自分が何かを見て「面白い」と素直に思えることが大事だと思う。それは、他人と同じように面白さを感じなくてもいい。とにかく、問いかけるのは自分の感性だけだ。
もし、面白いと思えるものがないなら、まずは面白いと思えるものが見つかるまで探し続けよう。自分の心が揺さぶられるものに出会えれば、それはいつか自分自身の面白さの源になる。

面白い人は「オレを見ろーッ!」というくらい自分の中にパワーを持っているものである。
面白さというものの多くは、計算して出来上がるものではなくて、その人の中から自然と溢れ出てしまうものだ。
人と違っても気にしない。たとえ大勢の人がいたとしても、その中に自分とぴったり同じようにモノを感じられる人がいることは滅多にない。
自分の面白さを知っている人は、他人が口にする「面白い」の感性すらも十人十色であることを良く知っている。
もし、人と違うことを気にして、その源泉の蛇口を閉めた経験があるのなら、いっそそれを全開にして、その面白さをダバダバと溢れさせてしまえばいい。

僕はそういう人が面白いのだと思う。

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