10円玉
道端で10円玉、拾った。
モザイクのタイル畳みを見ながら歩いていたら、黒っぽい丸があったのであれっと思い手を伸ばしてみたら10円玉だった。
いままでずいぶん見過ごされ、踏まれ続けたであろう10円玉は真っ黒だった。
おそらくかなりの時間、この場所にとどまっていたのだろう。
帰宅者が増えるこの時間帯。
赤飯と惣菜を買って、帰りのバスを待つために、列にならんでいたらいいタイミングでバスが入ってきた。
じぶんの前には結構人が並んでいる。いい席に座れるかどうか。
後ろドアが開くと、ひとり、またひとり、右、左、右と乗車し始める。
おお、
一番前の席に座れた。
途中から高校生が乗ってくるので、前方車両に乗ってないと降りにくくなくなってしまう。
ま、じぶんの体積の多さも関係しているから仕方ないのだが。
ブルートゥースでMrs. GREEN APPLE『インフェルノ』をガンガン鳴らして没入。
運転手が発車を告げてバスが動き始める。
T字路を左に曲がって一本道をまっすぐに走っていく。
夕暮れが進行方向左側からやってくる。
赤い、光を受けて、夕暮れの某跡地へ入っていくバス。
その入り口付近にある停留所前でバスが停まった。
降車する人がひとり、ゆっくりとした足取りで前までやってきた。
が、いつまでたってもバスは発車しない。
あれ? と、目を落とした。
ゲートボールか、あるいはゴルフなのかわからないバッグを抱えて足元がおぼつかないご老人が、乗車料金を払おうとして、運賃箱の前でかがみこんでお札を出そうとされていた。なかなか取り出せない様子。
五千円札と、千円札を何枚もたぐって、ようやく千円札一枚を右手に持って運賃箱へ差し入れようとした。
「千円、崩して入れてください」運転手のマイクを通した声が響く。
「……」
しかし、ご老人はどこへ差し込めばいいのかわからず、運転手の指示も耳に入らないのか、あらぬところへ向かって何度もなんども千円札を入れようとされていた。
運転手も、ご老人に戸惑っておられるようなので、じぶんは前の席から降りて、ご老人のお手伝いをしようと傍へ寄った。
ご老人は、バッグを運賃箱に立てかけていたのだが、そのバッグが紙幣両替口をふさいでいた。
じぶんはそのバッグを持ち上げて、「ここです、ここへ入れてください」と指し示すと、ご老人は何も言わず、そっとそこへ千円札を入れて小銭を出すことができた。
「180円です、180円入れてください」
運転手の声音の強度が気になるが、ご老人の右手のひらには170円が握られており、その時初めて、「さっき10円入れた」と言われ、170円を放り込んで立ち去ろうされた。
「えっ? 10円入れました?」
じぶんは慌て気味に運転手に尋ねるも、「いや、わからない」との返事。
そんなやりとりなど聞く耳も持たずに降車されようとするご老人。
いやいやいや。
じぶんの手には、両替したときに手伝った残金200円が残ったまま。
慌てて、ご老人の後ろポケットに200円を入れて、「おつり、ここへ入れてーー」と言っていたら前ドアが閉まった。
「ご協力感謝します」といわれ、
「はあ」と頭を下げて席に戻るとバスが動き始めた。
まあ、返せたからいいかと思い、一善したんだからいいやと思って、また『インフェルノ』に没入してたらじぶんが降りる停留所が近づいてきたのでブザーを押した。
半分夕闇がおりて赤い光も紫のようなくぐもった色でアスファルトを照らしていて、何も考えずまた下を向いて家路を目指していた時、アッと思った。
あの10円玉。
あのさっき拾った10円玉。
もしかして、ご老人は170円しか入れないんだから、
”何か”が、
「おいお前、拾った10円玉、お前に渡してやるから、さっきの爺さんの足りない分、かわりに運賃箱へいれといたらどうだ?」
っていう意味、だったんじゃないか、って思ったんだけど、バスはもう走り去り、10円玉はのこったまま。
そうはいうものの、そんなとっさの判断、いまのじぶんにできるわけないと思いなおして歩くんだけど、なぜかまたその想念にとらわれてしまう。
せめて、どこかの募金箱にでも入れよう。
あの10円玉のこと、ここ数日ずっと思い返したりしている。
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