映画「アナと雪の女王」に見る教育論
ディズニー映画を観ることが少ない私ですが、
「アナと雪の女王」はもう10回くらい観てまして、
きっと色々な人が書いているであろうことを私も書いてみます。
※あくまで映画 + 吹替ベースで書いてます
この映画に込められたメッセージ
映画はアナとエルサの幼少期から始まります。
遊んでいる最中、エルサは誤って魔法で妹のアナを怪我?させてしまいます。
駆けつけた両親は、急いで治療ができるトロールの元へ馬を走らせます。
「生まれつき備わった力で、どんどん強くなっている」という父(国王)。
トロールは「危険な力だから抑えなければいけない」と言い、
アナを治し、エルサの魔法の記憶も消してしまいます。
エルサはこの瞬間から、
好きで持っていたわけではない魔法の力を否定され、
とにかく力を使わないことを強要されます。
屋敷から使用人を減らし、窓やドアを閉め、
アナからも引き離しエルサが他人と極力関わらないようにします。
と、映画レビューではないのでここまでで十分ですね。
映画の続きを見れば、ここで国王が取った方法は間違いだったと分かります。
経験を奪う教育
エルサの生まれついての魔法は、いわば個性(特性)です。
その個性を否定され、抑圧された幼いエルサは「経験する機会」を失いました。
どうしたら暴走するのか
もしも暴走したらどう制御できるのか
まだ力が強くなる前にこういった練習の機会を得られなかったエルサが、
自身の戴冠式の日に引き起こした事態を見れば明らかです。
教育とは考える力を育むものですが、その試行錯誤をさせず、
ただただ「我慢する」「気持ちを高ぶらせない」というだけの手段を取ったのは失敗だったと言えるでしょう。
それも、まだ幼い子どもに。(映画ですけど)
大人になることを想像する
事実、戴冠式でその秘密が公のものになったあとで歌う「Let it go」は、
やはり大人として考えさせられるものがあります。
エルサは抑圧から解放され、存分にその力を発揮します。
この映画は、あえてそういうメッセージを入れています。
一緒に遊べなくなってしまった(魔法の記憶、怪我の記憶がないため理由も知らない)アナは、ただただ悲しそうに日々を過ごします。
教育とは、今この瞬間の為のものではなく、
社会に出たときに生きる力とする為のものだと思います。
この映画を見るたびに、大人として子どもたちにしてあげられることとしてあげなくてもいいことについて考えます。
プログラミング教育の必修化が始まりました。
Wi-fi環境のある学校があったり、タブレットの利用があったり、
少しずつ超情報化社会への参加を意識した教育になりつつあります。
発達障害やその他障がいについての理解や認識も高まってきています。
個性や特性が尊重される時代になってきていることも実感します。
しかし果たしてそれが今だけのものになっていないか、
私もIT×福祉に従事するものとしてこれからも考えていきたいと思います。
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