環境と選択

誰かのせいにしないために、可能な限りを自分の責任にする。自分が選んだことだと言い聞かせる。
情報が手に入りやすくなった現在では、情報に振り回され、受け取る情報に見合った決断をできない人が増えている。賢い人は決断のためにあらゆる情報を吟味するが、その吟味された情報だけが広まっている。
物事には絶対もなければ、二項対立が全てに当てはまるわけではない。中間や第三の意見がある。絶対的で揺るぎないものを求めたとしても、それはその時、そう思えただけだ。
しかしそれもまた自分を動かすために必要なことである。無駄ではない。自分が信じ、迷いなく行動するために必要だったのだ。
ただし、それが自分で選択したものかどうかはわからない。選択したように仕立て上げられたり、それ以外の選択ができないことだってある。まだまだ未熟だった自分が生きるために、周囲の環境が、その環境に合わせて生きるための選択を用意し差し出してくれたのだ。
体が成熟し、十分な思考できるようになっただろう。
環境を選び、選択ができるようになってきているのだ。
これからは、自分の人生を主体的に生きるためにも、決断、そこにある情報を自身で選択していく必要がある。
親ガチャという言葉や政府批判はこれから絶えず使われ続けると思うが、ここからは、舵を切るのは自分だ。何かを悲観していても何も始まらない。環境に流されるまま生きて、気づけば手遅れなんてことになる前に、行動するしかない。
時折優しい人がくれる、あなたの人生はあなただけのものだとよく聞く言葉だ。それは追い詰められたあなたを救う優しいものでもあり、またあなたを生かすのはあなたなのだという厳しいものでもある。選択することだ。そしてその選択を信じることだ。あなたはあなたが選択したもので作り上げられている。

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