お金の限界

お金に関して相反する人生を生きた二人、その結末

かつてロシアの大文豪であった「フョードル・ドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky)」は、一生ギャンブルにはまって借金と貧困に追われ、お金を稼ぐために文章を書かなければならかった。そのためか、「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、「悪霊」、「貧しき人々」などドストエフスキーの作品には、いつもお金の話が出てきて、お金が葛藤の原因となったり、事件の展開の主要な糸口になったりもする。

一方、ドストエフスキーと同時代に生きた「トルストイ(Leo Tolstoy)」は、裕福な貴族の家に生まれ、生涯お金の心配なく生きたからなのか分からないが、彼の作品は常に道徳を掲げた。トルストイの代表作である「アンナ・カレーニナ(Anna Karenina)」を読むと、彼の人生観と哲学がそのままにじみ出ている。彼は社交界の堕落を嫌悪し、どう生きるべきかについて絶えず悩んだ。

ところが、このようにお金に関して相反する人生を生きた二人の晩年は、やや皮肉なものであった。生涯金持ちだったトルストイは、妻との財産紛争で不幸な晩年を送ったのに対し、生涯貧しかったドストエフスキーは、妻の助力により平安で幸せな晩年を過ごした。

道徳と愛がお金になる現代社会

では現代人は、道徳とお金のうちどちらに大きな価値を置いて生きているだろうか?実際、今日はいつの時よりもお金がすべてを支配する社会になったといっても過言ではない。 2012年にマイケル・サンデル(Michael Sandel)米ハーバード大学教授がアサン政策研究院と共同で行なった「社会正義認識調査」の結果を見ると、韓国人の91%、アメリカ人の85%が「お金が人生を支配している」と答えている。

だからなのか、かつてはお金で売買できなかった多くのものが、今日はお金で売買される時代になった。血液や腎臓をお金で売買し、お金で学校に入学することも自由である。そして、これらのものが売買される理由として、個人の自由な選択であり、売買を通して一層経済的効率性を向上させることができるという自由市場主義の論理を展開する。

しかし、お金の限界は必ずある

しかし、我々は、友情を分かち合える友達が必要だからといってお金で友情を買うことはできないし、ノーベル賞を受賞したいからといってお金でノーベル賞を買うことはできない。お金で買った友達は真の友情を分かち合うことは難しいし、お金で買ったノーベル賞はその価値が毀損されるからである。結局、お金を介した市場の論理は、必ずある程度、限界が存在する。

特にそれが道徳だとか社会規範に関するものである場合はなおさらである。たとえば、子供をお金で売買する行為は明らかに親の愛を変質させるし、売春行為もいくら自発的だとしても、その行為自体は愛という価値を毀損させるものだ。お金を媒介とした売買がいくら経済的効率性を高めるとしても、決して手をつけてはならない価値は必ず存在している。

聖書は「金銭を愛することは、すべての悪の根である」と言った。お金に酔い、中毒になった人間になると、人の間で守るべき基本的な戒めや道徳を無視する傾向が高くなる。だから、人々はお金のために殺人し、お金のために良心や体を売ることを何ともなく思うようになる。しかし、天の国はお金を持って生きるのではなく、ただ「義」がその国の翼だと言った。 「お金は自由だ」と言ったドストエフスキーの言葉のように、お金はいつでも自由に自分のそばを離れうるということを考えなければならない。神様の真理によって、お金に執着する社会ではなく、道徳と愛という価値がまるでお金のように愛される社会に変化していくことを願う。

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