映画『わたしの叔父さん』を観て

人の善意とはこんなにもあたたかいものなのか、と思えた映画であった。それと同時に人生とはどうしようもないときもあって、優しさがいくつ集まっても越えられないものもあるという、切なさも感じた。

『わたしの叔父さん』は、家族を早くに亡くし、農場を営む叔父さんに引き取られたクリスの毎日を描いている。クリスは若く美しい。大っぴらに将来を望んでも咎められることはないはずなのに、自分で自分にブレーキをかけている。そこにあるのは叔父さんに対する優しさであった。

対する叔父さんだって、クリスのこれからを気にかけてないわけではない。上着の脱ぎ着だって、乳牛の世話だってクリスがいないと無事に終えることはできない。でも言葉数は少なくとも、叔父さんもクリスの未来を真剣に考えている。

起床する、朝食をとる、牛を世話する、テレビを見ながら夕食を食べる。映画の大半は二人のこの暮らしがベースにあって、観客は何回も何回も繰り返しこの場面を観ることになるのだが、この中に二人のささやかな欲望と自ら課した抑圧が隠れていて、時折顔を出す。観客はその小さな変化を発見したとき、あっと叫びたくなるだろう。

例えば、獣医に憧れるクリスの気持ちを知る獣医師から、家畜の手術の立会いに誘われたとき。例えば教会で出会った男性からディナーに誘われたとき。クリスの誕生日に、彼女の気持ちに触れられるようなプレゼントを用意する、叔父さんの振る舞いだってそうだ。

 決断は大事だし、世界は白黒つけることで大きくなってきた。しかしグレーのままにしておいたほうがいいこともたくさんある。自分の意思を押し通せば相手が引くからそれでよし、とはならない。押した分、その向こう側が気がかりで仕方がない、そんな優しさを見せてくれるのが二人であるし、それが人の良さではないかと感じた。

 とはいえ、主人公であるクリスの心は揺れる。叔父さんのこと、牛たちのこと、獣医のこと、そして出会った彼のこと。グレーの空はクリスの心で、大空を舞う大群の鳥のうねりはクリスの心の中、そのものなのかもしれない。しかし二人にどんな結末が待っていたとしても、お互いを愛情で支えあう二人なら、なんとかしていけるだろうと思えたのであった。


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