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映画『この世界に残されて』を観て

 『この世界に残されて』はナチスドイツの支配下にあり、約56万のユダヤ人が殺害されたハンガリーの戦後、1948年が舞台である。この年はソ連支配が強まり始めたころであった。ホロコーストの残酷な爪痕と社会主義化前夜の市井の人々が描かれる。

 両親と妹を失った16歳のクララ(アビゲール・スーケ)は、診療で出会った寡黙な中年医師アルド(カーロイ・ハイデュク)に同じ境遇を嗅ぎとり、心を寄せるようになる。彼も同じく家族を失い、決して塞ぐことはできない闇を心に抱えていた。彼は収容所の生還者であった。

 思春期真っ只中、かつ聡明なクララは周囲すべてに納得がいかず、学校や叔母に全身でぶつかっていく。対して医師・アルドは一貫して言葉少なく表情は寂しい。しかし二人が痛いほどの悲嘆の沼から抜けられないのは同じだ。その静と動の対比は波のようにじわじわと観る者の胸を締めつける。
 いつしかアルルは父親のようにクララを静かに抱き留め、魂を通わせていくが、性愛的にもたれ合いはしない。それぞれが新しい道に希望の萌芽を見つける。決断にいたるまでの、描かれない二人の葛藤を想像する。

 私は夫婦や友人ではない、心通う誰かの存在は人生のご褒美であると常々思っていた。その感覚はあまりにも軽く、おめでたいことだと認めざるを得なかった。
  一方、繰り返される“喪失や諦め、自律”は残された者に限らず、生きる者の宿命だと感じた。この映画はよその国に翻弄されるハンガリーの歴史を下敷きにしたフィクションである。同時に生きるとは何かと考えさせる、静まった樹海のような作品であった。


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