情緒不安定メンヘラ恋愛詩人シェイクスピア

まえがき 本文の出自について

この文章は大昔にシェイクスピアの『ソネット集』に関してのレポートとして大学に提出したものを元にしている。タイトルの「メンヘラ」のように、大学という場に相応しいとは言えないような語が含まれているのは、この度の公開に当たってより論旨が明快かつ、俗耳に入りやすい文章になるように少しだけ手を加えたからである。もともとの発想にもこの方が近く、提出の際はいわばこの文章に猫を被らせていた。所詮レポートなので、ソネット本文及び注釈はすべてArden版から引いて済ませている(言うまでもなく、授業で使用した教科書がそれだったため)。テクストの多面的で学術的な検討というよりはあくまでエッセイに近い。

導入

シェイクスピアの『ソネット集』は、詩人がとある美青年に宛てた恋愛詩集である(或いはそういう体で書かれている)。最初のソネットでは、青年の外見的な美しさや、内面的な気高さを称え、そうした美質を後世に残すべく、子孫を設けることを求めている。しかし段々と、詩人の青年に対する態度は変わっていく。青年の不実さに失望し、失恋へと向かっていくのである。本論では、この詩集の最初のおよそ30篇強を対象に、そうした精神的な変遷を跡付ける。
第1段階では、詩人は恋愛対象を称賛し、子を生すことを要求している。このフェーズでは、青年との対話が試みられている。第2段階でも同じく、青年の美しさは称えられる。かの高名なソネット18番もここに属する。しかしこのフェーズでは、詩人の青年に対する態度にある変化が起きている。第1段階では、青年の美しさを後世に残すべく、結婚し、子孫を残すことを求めていたが、不実な青年はそうした願いを聞き入れず、遊蕩を続けていた。そのため第2段階の詩人は青年への期待をやめ、その「美」を後世に伝える手段として、自身の詩に頼ることにする。この段階の詩人は、相変わらず青年を称えてはいるが、もはや青年のことは見ていない。対象は勝手に理想化され、もちろん恋愛はこうなってしまえば破局を避けられない。詩人は自身の思いが受け入れられないあまり、自身に無理を強いている。そんな状態が長く続くわけもなく、やがて青年に対して直接的な非難を述べるようになる。こうした流れを辿る恋心は、今様にいえば極めて情緒不安定で、メンヘラチックだ。
本論は文学史上の大作家であるシェイクスピアを、まるで恋愛もののドラマや漫画のキャラクター、あるいは現実にいる人物のように、親しみやすく、ある種みっともない人 物として見ることになる。それは『ソネット集』における、精神の劇を捉えることである。
『ソネット集』は154篇もの詩を収めた大著であり、全体を読み通すことは専門家でもない限りあまりない。単体で読んでも面白い詩が多数ある一方で、いくらシェイクスピアとはいえ、154もの作品があればあまり良くないものも当然混じってくる。しかしたとえば18 番のような傑作だけを読んで済ませるのは、演劇の名場面だけを切り取って鑑賞するようなものである。18 番における詩人の決意は清々しく、対立構造も鮮やかだが、しかしこうした境地へ至るまで、詩人には葛藤があり、また境地に達した後、その確信は揺らいでいくのである。そうした精神の働きを跡付け、連作としてのソネ ットを考えることが、本論の狙いである。

「自然」の破壊と「美」の永遠化


詩人は青年の「美」を後世に残すことに執着している。その願望の根底にあるのは、「美」と、それを生み、かつ破壊する「自然」の力に如何に向き合うかという問題意識である。村松俊子の指摘によれば、

『ソネット集』は、ひとつの認識から始まる。それは「自然」の持つ二重性である。最初の 24 編でうたわれる「美」の永遠化は、その認識をもとに生まれたものである。あ らゆる「美」の象徴である若者に向かって、自らの美貌に心を奪われ若さを枯死させてはならない、とうたうソネット詩人の執拗な説得の根底にあるのは、「増殖と死」、すなわち「時の創造力と破壊力」を重ね持つ、「自然」の働きの二重性の脅威への認識である。(村松、2007、P18)

村松の言うように、『ソネット集』には「二重性」に悩む詩人の葛藤がある。美しいものを生む自然が、その美しいものを破壊する残酷さを併せ持つ。そうしたアンビバレンスな力と如何に向き合うか、また、自然の破壊を如何にして乗り越え、青年の美を「永遠化」するか、 それが詩人の抱えている問題であった。

青年への失望、詩人の自負


そうしたことを踏まえた上で、個別のソネットの中で最初に確認しておきたいのが、18 番である。これは『ソネット集』の中で、最も有名なソネットの一つであり、また、重要な論点を孕んでいるので、この 18 番を軸に考察を進める。

Shall I compare thee to a summer’s day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer’s lease hath all too short a date;
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature’s changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow’st;
Nor shall death brag thou wander’st in his shade,
When in eternal lines to time thou grow’st:
 So long as men can breathe or eyes can see,
 So long lives this, and this gives life to thee. (P147)

この詩において、詩人は自然の破壊力に対し、自らの作品を以て抵抗しようとしている。青年の美を「永遠化」する手段として、自らの詩才を用いているのだ。美しいが儚い夏の風物 と、詩の中で生き続ける青年を対比させ、その永遠の美を浮き彫りにしている。この対比の構造は鮮明であり、アンソロジーにこの詩が採られることが多いのは、この鮮やかさによるところが大きい。単体で読んだときにも味わいやすいのである。もちろんそれでもこの詩は 素晴らしいが、より意義深いものとして味わうには、前後の流れを考察し、全体の中に位置 づけることが不可欠である。
前後の流れを論じる上で、触れておかねばならない点がある。詩人の青年に対する態度で ある。上の村松の文章に見られる「自らの美貌に心を奪われ若さを枯死させてはならない、 とうたうソネット詩人の執拗な説得」なるものは、この 18 番では一切見られない。詩人は 自らの詩の力で青年の美を「永遠化」しようとしているのであり、青年に対しては何の要求 もしていない。
そうした説得はこれ以前の 17 までのソネットで繰り広げられている。あな たの美を後世に伝えるために、子孫を残しなさいと、詩人は様々な理屈とイメージを駆使して懇願している。そうした説得が実らなかったので、18 番で詩人は、青年には頼らず、自らの力で「永遠化」しようと決意した。現実の相手に失望したから、詩によ って理想化するのである。
17 までの作品は、子を生すように説得している。詩による「永遠化」と いう発想は、18 より前の詩でも既にみられるが、詩人の決意はまだそれほど固まっていない。たとえば 17を以下に見ると、

Who will believe my verse in time to come,
If it were fill’d with your most high deserts?
Though yet, heaven knows, it is but as a tomb
Which hides your life and shows not half your parts.
If I could write the beauty of your eyes
And in fresh numbers number all your graces
The age to come would say ‘This poet lies;
Such heavenly touches ne’er touch’d earthly faces.’
So should my papers yellow’d with their age
Be scorn’d like old men of less truth than tongue,
And your true rights be term’d a poet’s rage
And stretched metre of an antique song:
 But were some child of yours alive that time,
 You should live twice; in it and in my rhyme. (P145)

ここではまだ詩人は青年に対し、生殖を勧めている。「あなたは二度生きることになる、子孫の中に、そして私の詩の中に」という最終行からも分かる通り、詩と生殖が並列関係にあ る。この二つで以て、自然の破壊に対抗しようとしている。つまり、18 番のように対比が 鮮明ではない。18 番における、自然の破壊の力と、詩による「永遠化」の力という一対一 の均整の取れた関係は、ここでは二対一となって崩れてしまっている。従って 17 番は単体で読んでも、18 番ほど印象的ではない。だがそれもやむを得ない。1 行目で「(あなたの美 が消えてしまうなら)後の時代の誰が私の詩に書かれてあることを信じるだろうか」と、自分の詩の力に疑念を抱いている。18 番で見られた、清々しいまでの詩人の自負は、まだここでは見られない。ある種の開き直りを経てはじめて、 18 番のような詩が書ける。それは 青年本人に期待するのをやめることである。
18 の後に続く 19 番はどうだろうか。

Devouring Time, blunt thou the lion's paws,
And make the earth devour her own sweet brood;
Pluck the keen teeth from the fierce tiger's jaws,
And burn the long-liv'd Phoenix in her blood;
Make glad and sorry seasons as thou fleets,
And do whate'er thou wilt, swift-footed Time,
To the wide world and all her fading sweets;
But I forbid thee one more heinous crime:
O, carve not with thy hours my love's fair brow,
Nor draw no lines there with thine antique pen!
Him in thy course untainted do allow
For beauty's pattern to succeeding men.
 Yet do thy worst, old Time! Despite thy wrong
 My love shall in my verse ever live young. (P149)

詩によって美を「永遠化」するという考えは、ここでも引き続き生きている。「獅子の爪」 「虎の牙」「不死鳥」などの破壊を時間に対して命じているのは、もちろんそうしてほしいからではなく、為すすべない時間の破壊に対して白旗を上げ、投げやりになっているので ある。そうしたものはいくらでも滅ぼしてくれて構わないが、しかし彼のことだけは傷つけないでくれないかと懇願することで、愛の深さを示している。ところが最後のカプレットに至って、詩人の態度は変化する。「いや、好きにすればいい、老いぼれた時間よ。/あの人は永久に若いままだ、私の詩の中では。」と吐き捨てる。つまりここでは青年も、詩人にとって投げやりに捨てられる対象となってしまっている。詩人が「永遠化」して残そうとしているのは、詩の中の理想化された青年であり、肉体としての彼は「獅子」や「虎」や「不死鳥」同様に、時間に貪り食われる儚い存在でしかない。“old time”と”live  young”の対比は美しいが、永遠に若さを保ち、老いぼれた時間の破壊に対抗する力があるの は、理想化された青年の方である。18 で青年への期待をきっぱりと捨てた詩人にとって、現実の青年はもはや「美」の永遠化のための素材でしかないかのようだ。
ソネット 20 では、1 行目の“A woman’s face with Nature’s own hand painted”及び 6 行目 の“Gilding the object whereupon it gazeth;”(P151)という表現が重要である。ここでの「描く」、「黄金にする」という単語が孕むニュアンスだが、Katherine Duncan-Jones の注釈によ ると、どちらも(メッキを塗りたくるようなイメージで)「偽の」「表面的な」という含意がある(P150)。つまりここでは、青年の美しさを称えておきながら、暗にそれが上っ面のものに過ぎないと非難していると解釈できる。18 番や 19 番と同様に、不実な青年に対する詩人の皮肉が、称賛の裏に忍んでいる。
ソネット 21 は、愛する人を称える際に人間離れした大仰な比喩を用いる同業者たちを風刺し ている。その 12 行目で“As those gold candles fixed in heaven’s air:”「(私の恋 人は美しいが)空に据え付けられた蝋燭ほどには美しくない」と言うが、18 番以降の詩人はまさに、青年を詩の中に“fix”、つまり「固定」しようと試みている。「固定」によ ってでしか、もはや「永遠化」は叶わないと、詩人は悟っているはずである。従ってこの表現からも詩人の苦々しい思いを汲み取れる。

青年宛ての手紙


続いてソネット26を確認する。

Lord of my love, to whom in vassalage
Thy merit hath my duty strongly knit,
To thee I send this written ambassage
To witness duty, not to show my wit;
Duty so great, which wit so poor as mine
May make seem bare, in wanting words to show it,
But that I hope some good conceit of thine
In thy soul’s thought (all naked) will bestow it,
Till whatsoever star that guides my moving
Points on me graciously with fair aspect,
And puts apparel on my tottered loving,
To show me worthy of thy sweet respect:
 Then may I dare to boast how I do love thee,
 Till then, not show my head where thou mayst prove me. (P163)

Helen Vendler 曰く、このソネットは青年宛ての書簡体で書かれており、言葉の意味とは裏腹に、詩的な技巧を見せびらかしている。キーワードは“show”である(Vendler、1997、 P148)。確認してきたように、詩こそ美の「永遠化」のために残された手段であり、生命線でもあるのだから、その技術を見せびらかすことの意義は無視できない。詩は若者を固定化す る手段である。しかしこれは書簡体なので、見せびらかすことで若者に対してコミュニケーションを取っているわけでもある。まだ若者と向き合いたいという思いが辛うじて残っている。しかしコミュニケーションの取り方として理想的とは言い難い。自分の能力の自慢ばかりするのは、一般的に言えば相手に嫌がられる。また Vendler が「青年の機智が詩人のそれよりも秀でているという発想はこれ以降出てこない。恐らく、そんなわけがないので、夢心地にある時でさえもそんなことを言うのは憚られたのだろう」(P150)と言うように、稀代の大詩人がこんなことを言うのは嫌味でさえある。相手と向き合ってコミュニケーションを取るということができていない。
詩人のコミュニケーションの例として、ソネット 28 も興味深い。

How can I then return in happy plight That am debarred the benefit of rest? When day’s oppression is not eased by night,
But day by night and night by day oppressed;
And each (though enemies to either’s reign)
Do in consent shake hands to torture me,
The one by toil, the other to complain
How far I toil, still farther off from thee.
I tell the day to please him thou art bright,
And dost him grace when clouds do blot the heaven;
So flatter I the swart-complexioned night,
When sparkling stars twire not thou gild’st the even:
 But day doth daily draw my sorrows longer,
 And night doth nightly make grief’s strength seem stronger. (P167)

詩人は青年と遠く隔たってしまったことを嘆いている。愚痴の詩である。直接的な非難の語 はここには見られないが、“lover”とみなした相手に対してこのようにこぼすこと自体が、恋愛においては不穏なものを感じさせる。この不穏さを補強する仮説として、Vendler による、このソネットが、青年から送られてきた手紙への返信ではないかという説がある。

この詩は語り手が恋人から受け取った手紙からの返信とも考えられる。「あなたが幸せな状態に戻れることを願います」と書いてあったのを承けて、詩人は悲しみに暮れながら、その手紙から間接的に引用して、激しい口調で書き始める。「どうして“幸せな状態” に戻れようか」(中略)しかしこの不満の矛先は、本当は何の罪もない月や太陽へ逸らされている。そして青年に向けられた言葉は、全てが称賛の言葉である。(P158)

もしこの仮説を採用するなら、ここでも詩人の青年に対する皮肉が込められていると言える。こうした仮説を立てることを許すのは、このソネットの言及先の曖昧さである。9 行目”thou art bright”で呼びかけられている「君」を「昼」と取るか「青年」と取るかだ。Duncun-Jones の注は前者と解釈 している(P166)。しかし吉田健一はその訳詩集において当該箇所を「曇った日でも君がゐれば何も欠けることはない」と、後者の意に取っている(吉田、2013、P37)。この二つの解釈を、詩的な面白さのみを比較するなら、吉田に軍配が上がるだろう。「昼の歓心を買うためなのに、美青年を褒めるのはおかしい」(P166)と Duncun-Jones は言うが、それこそ詩人の機智なのである。昼の機嫌を取るなどと言っておきながら、実際は昼や夜をだしにして自分の思い人を持ち上げるのは、人を食ったようなユーモアである。ユーモアは詩人にとって「永遠化」の手段である。またもし Vendler の仮説の通り、このソネットも 26 番と同じく青年に宛てた手紙とするなら、ユー モアはコミュニケーションでも活用されていると考えられる。

我慢の限界へ


しかしそうしたコミュニケーションも、内容はどんどん希薄になっていく。ソネット 30 と 31 は、その大きな転換点である。30 番に“Which I new pay as if not paid before.”「まだ支払 っていないかのように、また新たに支払う」という表現がある(P171)。注でも、このソネッ トには商業の比喩が多用されているとの指摘がある。(P170)。こうした比喩は、青年に生殖 を勧める初期のソネットでも見られる。たとえば 1 番の“To eat the world’s due”(P113)は世 界に支払うべきものをきちんと支払うように(つまり、美しさを残すために子をつくるように)という忠告である。翻って、ソネット 30 では、青年は支払いの義務を免除され、受け取る一方になっている。これは関係性という点で、大きな変化である。こんなアンバランスな関係は、恋愛としては不健全で、長続きするものではないだろう。ましてそれを相手に対して表明するのは、恩着せがましくさえある。詩人はこれまで詩の中で青年への当てこすりを散々してきているのもあって、尚更ここは不穏だ。
31 番も同様に、商業の比喩が多用されている。

Thy bosom is endearèd with all hearts
Which I by lacking have supposèd dead,
And there reigns love and all love’s loving parts,
And all those friends which I thought burièd.
How many a holy and obsequious tear
Hath dear religious love stol’n from mine eye,
As interest of the dead, which now appear
But things removed that hidden in thee lie.
Thou art the grave where buried love doth live,
Hung with the trophies of my lovers gone,
Who all their parts of me to thee did give;
 That due of many now is thine alone.
 Their images I loved I view in thee, And thou (all they) hast all the all of me. (P173)

12 行目の“That due of many now is thine alone.”を見ると、やはり青年は専ら受け取るだけになっている。詩人はもう彼に一切期待していない。1 番では生殖を促すた めに商業のイメージを使っていたのが、ここでは青年に義務を課そうとしていないのが対照的である。ここでもう一つ重要なのが、青年を墓に喩えている点である。Duncun-Jones が注釈で書いている通り、墓の比喩もソネット 1 と共通であるが、やはりここもニュアン スはだいぶ異なっている(P172)。 ここでの青年は逝ってしまったすべての恋人たちを容れる器として、神格化に近い扱いを受けている。ソネット 21 での、大げさな比喩を用いるライバル詩人たちへの痛烈な当てこすりを取り上げて、ここでの大仰な美化を単に詩人の言行不一致ととるだけでは、不十分である。詩人にはそうするだけの理由があった。つまりここには投げやりな感情がある。取引のルールに基づく対等な関係は放棄され、墓という、人間ではないものとして相手を扱っている。ソネット 1 で相手を墓呼ばわりする最後のカプレッ トは”Pity the world, or”「世界を憐れんでくれ、さもなくば」で始まっており(P113)、つまり命令に従って、世界を憐れみさえすれば、墓になることはない。その一方でここでは墓として相手をたとえてしまっていて、彼がそこから逃れる方法はない。もはや何かを期待して語りかけることもなく、相手を生き た人間ではなく、静止した、“fix”された対象として見ている。墓の比喩も商業の比喩も、 どちらも初期ソネット群とは違うニュアンスで用いられている。こうした対照に何らかの意図が読み取れるのではないか。
しかしソネット 32 で、またも詩人は揺らいでいる。ここは 18 番と同じく、 青年の美を詩によって残すことを歌っている。

If thou survive my well-contented day,
When that churl Death my bones with dust shall cover,
And shalt by fortune once more re-survey
These poor rude lines of thy deceased lover,
Compare them with the bett’ring of the time,
And though they be outstripped by every pen,
Reserve them for my love, not for their rhyme,
Exceeded by the height of happier men.
O then vouchsafe me but this loving thought:
“Had my friend’s Muse grown with this growing age,
A dearer birth than this his love had brought
To march in ranks of better equipage:
 But since he died and poets better prove,
 Theirs for their style I’ll read, his for his love.” (P175)

ここでは、詩人は自分の詩のクオリティに疑念を表明している。もちろん、26 番の前科も あり、文字通りに取る必要はない。現に Duncun-Jones も、最終行の“style I’ll”という中間韻を、言葉とは裏腹にむしろ技巧によって他の詩人たちを揶揄っているのだと述べている (P174)。自然の破壊に対抗する手段として、詩を持ち出している のは 18 や 19 と共通だが、ここで注意が必要なのは、この 32 番では詩の芸術的価値よりも詩人が抱いている愛が強調されている点である。つまり 30 や 31 の商業の比喩と同じ、押しつけがましさが見て取れる のである。10 行目から詩の終わりにかけては直接話法になっているため、臨場感があるが、 つまり、「こういう優しい思いを抱いてください」と懇願しているのである。
そしてソネット 33 ではいよいよ、青年に対する批判が表面化してくる。

Full many a glorious morning have I seen
Flatter the mountain tops with sovereign eye,
Kissing with golden face the meadows green,
Gilding pale streams with heavenly alchemy;
Anon permit the basest clouds to ride
With ugly rack on his celestial face,
And from the forlorn world his visage hide,
Stealing unseen to west with this disgrace:
Even so my sun one early morn did shine
With all triumphant splendour on my brow;
But out alack, he was but one hour mine,
The region cloud hath masked him from me now.
 Yet him for this my love no whit disdaineth,
 Suns of the world may stain, when heaven’s sun staineth. (P177)

このソネットも 18 番と共通するイメージを持つ。雲が太陽を隠すというイメージである。18 番では、太陽とは太陽そのものを指し、夏の美しさの儚さを示すため に挙げられた例の一つであった。しかし 33 番では、太陽は青年のように不実な恋人の象徴 となっている。“Anon permit the basest clouds to ride”とあるように、雲に覆われるのは、 それを太陽が許したからだという、批判もしている。また“Full many a glorious morning have I seen”という 1 行目から、そうした不実な恋人たちは、繰り返される朝と同じように、今まで何人も見てきたということが読み取れる。青年は 31 番で、過去のすべての恋人を入れる墓として称賛されたばかりなのに、もうそうした過去の恋人たちと同格にまで貶められて しまっている。やはり、無理な神格化は長くは続かない。
最後に、混乱と葛藤が頂点に達するソネット 35 を見る。

No more be grieved at that which thou hast done:
Roses have thorns, and silver fountains mud,
Clouds and eclipses stain both moon and sun,
And loathsome canker lives in sweetest bud.
All men make faults, and even I in this,
Authorising thy trespass with compare,
My self corrupting salving thy amiss,
Excusing thy sins more than their sins are;
For to thy sensual fault I bring in sense—
Thy adverse party is thy advocate—
And ’gainst myself a lawful plea commence:
Such civil war is in my love and hate
 That I an accessary needs must be
 To that sweet thief which sourly robs from me. (P181)

青年をまだ愛し、赦したい自分と、青年を憎む自分とが戦っている。前述の村松はここでの 青年を「いわばイデアの世界から地上に落ちた存在」と形容し、このソネットで詩人は彼の罪を正当化しようとして、自己矛盾に苦しむのだと説明する(P21)。つまり、青年の理想化 に挫折した結果、詩人の自我は分裂し、苦しみが始まるのである。詩人は「弁護人」であり 「告発者」でもあるが、「告発者」としての詩人が如何に苛烈であるか、第 4 行目から読み 取れる。ここで”bud”というイメージがあるが、注にあるように、ソネット 1 の 11 行目でも青年を表すメトニミーとして”bud”は用いられている(P180)。つまりこの行は青年へ投げ かけられた非難である。その前の 2 行の“Roses have thorns, and silver fountains mud,”や “Clouds and eclipses stain both moon and sun,”と比べてみれば、この“bud”のイメージの重みがわかる。これらの行には、1 行に複数のイメージが詰められている。「薔薇の棘、水流の底の泥」及び「雲や日食や月食、そうしたものに覆われる月と太陽」である。イメージを 淡々と列挙している。しかし問題の 4 行目は、「とても美しい蕾にも嫌らしい毛虫が住む」 という一つのイメージだけで成り立っている。また、形容詞の役割も重要で、”sweetest” によってこれがただの“bud”ではないことを示し、”loathsome”という、激しい嫌悪を示す言葉で、ただでさえ嫌な感じのする「毛虫」を修飾しているのが、前の 2 行の淡白さとコントラス トをなし、このイメージは非常に強く迫ってくる。レトリックを駆使しており、直接的とまでは言えないが、かなり露骨な非難を詩人はするようになっている。

以上、『ソネット集』において、詩人が恋に破れていく過程を概観した。青年の側から見れば、実に情緒不安定で、煩わしい男である。この詩人のような状態に陥っている人間がもし現実で身の回りにいれば、多くの人は諦めて他の相手を見つけるように諭すのではなかろうか。
こうして見ると『ソネット集』において「永遠化」されているのは、青年の「美」というよりは、もっと別の、激しく、ダイナミックな、精神の躍動だと言える。それはみっともない激情だ。しかし読めば否応なく、「美」を感じさせられる。

参考文献

Shakespeare, William. Shakespeare's Sonnets Edited by Katherine Duncun-Jones. London: Bloomsbury Publishing, 2010.
Vendler, Helen. The Art of Shakespeare’s Sonnets. Cambridge: Harvard University Press, 1997.
吉田健一. 訳詩集 葡萄酒の色. 岩波書店, 2013.
村松俊子. 奇想の詩学――シェイクスピア『ソネット集』論. 鷹書房弓プレス, 2007.


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