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人魚の眠る家

著者はかの有名な東野圭吾。最新作がミステリーではなかった。

私が行った書店では最新作の紹介していたポップに

たまには人間味あふれる作品を描きたくなる

というような趣旨のコメントが紹介されていた。

中身を確認せずに最新作をとってしまった。

それは前回のミステリーではなかった作品である

「人魚の眠る家」がとても心に響いたからである。

前置きがとても長くなってしまった。この本で私が心に響いた点を紹介していく。


この本が発売されたor私がこの本を読んだのは2015年だった。

私の記憶ではの話だが、この時、小児の脳死判定を認めるか否か

という非常に小児業界では大問題となることのぜひを問うている時だった。

私は母親が業界では有名な小児専門病院で看護師をしていたこと、

私自身が喘息を患ったことと新生児の時に肺炎で入院したことがあり、

その小児病院にお世話になったことがあり、

この問題に非常に関心があったことを覚えている。

そんな中読んだこの本は、命とはなんなのか、生きるとはなんなのか

そしてこの小児の脳死判定の問題について「あなたは」どう思いますか?

と問われているようであった。

そう感じたポイントを2つに絞り、紹介したい。


この物語はお父さんが、EMSの電気機器を扱うめーかーで働いている。

SIXPAD 有名なEMS。電気信号を筋肉に流してそれによって勝手に筋肉が動くというものだ。

奥さんの職業には詳細に思い出せない。申し訳ない。

この2人の夫婦の間に娘がいるのだが、その娘さんは脳死判定を受けてしまったのだ。

よく植物状態と脳死を混合させてしまう方がいるが、

植物状態=大脳と小脳は働いていないが、脳幹は活動している

脳死=脳幹を含めて脳の全ての領域が活動していない状態

と私は解釈している。間違っていたら申し訳ない。

昔は世界仰天ニュースで、植物状態から25年後に回復したというような出来事を何度か扱っていたような記憶がある。植物状態は回復する可能性が完全に0ではない。

しかし脳死から回復したというの全世界中で0だということ。

しっかりとした脳死判定が確定される頃には大体は10日程度で心臓も止まる。

つまりこう言った状態ではないのなら脳死ではない。植物状態と混同した記事はとても散見されるので注意してほしい。

この10日程度で死にいたってしまう。と言ったところはあくまでフィクションなので見逃してほしい。問題はもう二度と目が覚めることのない脳死判定が

「確定した後の生活の仕方」を描いている。

お父さんのほうは臓器提供に同意する。これもフィクションだがその頃、同じ病院では今かと心臓移植を待っている男の子がいたからだ。

お母さんは脳死は死ではないと、娘の死を受け入れない。なぜなら心臓は動いていてまだ体が暖かいからだ。

そこからお母さんの狂気的行動が始まる。

お母さんは娘を車椅子に乗せて、呼吸器とEMS機器をつけて昼夜共に過ごすことにしたのだ。

体を動かさないと鈍るからと、EMS機器で娘を「操作」し始める。

読んだ人も感じただろう。

「これは果たして、『生きている』のだろうか?」

これが一つ目の大きなことである。


そして上記にも記したが、この家族の葛藤の裏で

臓器移植を待つ側にも大きな葛藤がある。

それは

「臓器提供を受けるということは、

『自分の子供と同い年くらいの子が亡くなった』という事実」


臓器提供を早くしてくれなどと願ってはいけないという倫理だ。


ドラマを見ていて臓器提供が早くきてほしいと願ってしまうことがあった私にとって、かなりのショックを与える言葉だった。


人の生と死とはなんなのか、

人としての倫理を、息子が死ぬかもしれないという極限の中でも、自分は持てるか


これを自身に問いただすとてもいい機会であったし、東野圭吾の作品をこれからずっと愛していくことになるだろうと思う作品となった。


興味がある方、そして心を落ち着かせて物語に浸りたいと思う方はぜひ読んでほしい。

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