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「保育」と「教育」のちがいって何?

ただいま「一日一殺」いえ「一日一冊」読書を絶賛励行中です。
今日は津守真(1997)『保育の地平ー私的体験から普遍に向けて』(ミネルヴァ書房)を読みました。

以下引用です。

「子どもは、身体的行為によって、人生を探求している哲学者である。傍にある大人は、その行為を自分に置きかえ、その意味を深めるとき、子どもの内奥の世界に応答する者となる。日々の保育によってそれは確かめられ、新たな展開をするので、毎日子どもにふれることができるときは妥当性が増す。」(p.96)

「子どもと出会うとき、相手の子どもは、大人である私にとって、究めつくすことができない未知な世界をもった、他者としての存在である。子どもは、究極的には大人の理解を超えた、他人が手をふれることを許されない、尊厳な人間存在である。これは、子どもと出会うことの根底にある、大人と子どもとの存在の様式である」(『保育の一日とその周辺』フレーベル館、1989)。出会うとき、私共は対等な人間同士である。教師と生徒、能力の差、立場の違いなどの違いはあるが、相手も私も、それぞれ、自らの人生を生きる者として対等である。」(p.281)


・・・津守真さん、名前だけは知っていましたが、著作を読んだのは恥ずかしながら初めてでした。

 思想の基盤に信仰があるのでしょうけれども、他者としての子どもを対等な存在として尊ぶ姿勢のゆるぎなさがハンパない。

 それにつけても。

 この本に描かれる「保育」に比べて、その後に続く学校での「教育」の押し付けがましさ=「指導」の美名のもとの傲慢さったら、ないわー。

 いやあ、保育と教育のちがいって、何なんでしょうね。

 学校って、どうすりゃいいんでしょう。

 みなさんは、どう考えますか?

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