見出し画像

北京五輪と中国の対外戦略

東京オリンピックがどうなるかと気をもんでいる日々ですが、気がついたら北京オリンピックももう一年後まで迫っていました。夏のオリンピックと冬のオリンピックを同一都市で開催するのは史上初らしいですが、何よりも前回2008年からわずか14年後に首都北京に2回目の大会を招致し、開催するという中国政府の意気込みに驚かされます。国際社会における存在感を高めたいという中国政府のねらいがひしひしと感じられます。

中国によるソフトパワー強化

ある国が国際社会において存在感を高め、影響力を強めるという場合、まず最初に考えられる手段が軍事力でしょう。武力を行使すればもちろん、行使しなくとも、強大な軍事力を保有することで他国を威嚇したり、敵対的行動を抑止することができます。

次に経済力があります。他国との貿易や投資によって、互いを不可欠な存在とすることができますし、時として経済関係を一部遮断することで相手国や対象者に打撃を与えることができます。特定個人や企業を対象に、資産凍結や取引禁止といった経済制裁を課すということが行われるのはこの例です。

このような強制的な力によって影響力を高めることとは別に、より自主的で平和的な形で影響力を保有・行使すること、それがソフトパワーです。

それは文化や芸術、さらにはものの考え方などの価値観などによってもたらされます。中国は、南シナ海や中印国境付近などにおける行動に見られるように、軍事力を背景にして影響力を強める場合や、「一帯一路」構想のように経済力を背景に影響力を強める場合があります。しかし、それに加えて、ソフトパワーによる影響力強化にも乗り出してきたのです。

その最初の目立った動きが、2008年の北京オリンピックだったと言えると思います。

ソフトパワーは、米国クリントン政権下で国防次官補を務めたジョセフ・ナイが最初に提唱した概念ですが、中国は90年代前半頃からこれに注目していたと見られます。89年の天安門事件によって、国際社会における評判が地に落ちた中国にとって、いかに自国の評判を回復するかは重大な課題だったわけです。

2008年北京オリンピックの招致

アジアにおける夏季オリンピックについては、64年に東京で開催されたのが最初で、その後88年にソウルでも開催されました。中国にとっては、日韓両国に遅れをとったとの焦りもあり、その威信にかけて北京への招致を早急に実現したかったわけです。何より、完全に平和的な形で、世界における存在感を示すことができるソフトパワー発揮の絶好の機会となると見込んだのです。

中国はまず2000年のオリンピックを目指しました。20世紀最後のオリンピックであり、2000年代最初のオリンピックであることが、何より魅力的でした。しかし、開催地投票では、最初の3回まで一位でしたが、決選投票でシドニーに破れることとなりました。その後、再起をかけたのが08年のオリンピックです。パリ、イスタンブール、大阪と争った招致レースは、01年の開催地投票において北京が勝利を収めました。

中国政府による入念な準備

自国におけるオリンピック開催は、大規模な国際イベントを主催するだけの国力を示すのみでなく、競技会場のデザイン、聖火リレーのアレンジ、開会式・閉会式の企画開催などにおいて、開催国の文化や伝統をアピールする絶好の機会となります。中国政府は、世界的な中国人映画監督チャン・イーモウを総監督に据え、文化芸術面の入念な準備を行いました。

聖火リレーは、世界五大陸を巡り、聖火リレー史上最長の13万7千キロを走破しました。中国国内に到着した後、国内ルートにおいて中国とネパールとの国境にまたがるエベレスト登頂が行われ、世界を見下ろす頂を中国が支配していることを強調しました。

大気汚染で悪名高い北京ですが、オリンピックが近づくと、中国政府は北京周辺の工場や火力発電所の操業を厳しく制限し、一時的な空気浄化が行われました。これにより、オリンピック期間には、普段決して見ることのできない北京の青空を見せることに成功したのです(この北京の青空の演出は、ペキン・ブルーと呼ばれ、その後もたびたびおこなわれました。14年の北京APEC首脳会議など、大規模な国際イベントが開催される際に行われています)。さらに、開会式当日は、北京に雨雲が近づいてきたため、1000発以上の小型ロケット発射によりヨウ化銀を撒いて人口降雨を引き起こし、北京郊外にて雨雲を消滅させました。

中国文化・歴史のアピール

こうして迎えた北京2008の開会式は、中国古来の打楽器2008台によるカウントダウンから始まり、孔子の言葉「朋有り遠方より来る。また楽しからずや。」の唱和により、世界からの「友人」を歓迎しました。

9歳の少女による中国愛国歌の独唱、中国各民族の子供たちと人民解放軍儀仗兵による中国国旗の掲揚へと続き、その後、中国の歴史・文化を象徴するアトラクションが行われました。そこでは、「紙」の発祥、古琴などの伝統楽器、山水画、論語、京劇、万里の長城、シルクロード、世界各国語の共通の語源となる「茶」、英語でchinaと呼ばれる「陶磁器」など、さまざまなモチーフが登場しました。

それらは、中国の伝統文化を表現するとともに、それが世界の文化の源となっているとのニュアンスを感じさせるものでした。

批判の高まり

しかし、北京オリンピック開催には批判もありました。ウィグルやチベットの問題などが、批判の対象となり、各地で抗議活動が行われました。特に、世界各地を回ることになった聖火リレーをめぐっては、行く先々でデモに見舞われました。

中国国内においては、場所を特定しつつも、デモを認めるというのが、国際オリンピック委員会との合意だったはずですが、実際には一件も許可されず(申請されても取り下げるように仕向けたと言われます)、この点がむしろ批判の対象となりました。

芸術顧問就任を要請されていた映画監督スチーブン・スピルバーグは、スーダンのダルフール紛争での中国の対応に抗議して辞退しました。開催期間中には、外国報道機関に対する規制が批判の対象となりました。

また、開会式の少女の独唱が口パクであったことや、各民族の子供が実はほとんど各民族の衣装を着た漢民族の子供であったこと、花火の映像の大部分がCGであったことなどが次々と判明し、「偽装オリンピック」などと言われたりしました。

それでも、なお

このような批判はあったものの、アスリートたちの競技にかける真摯な情熱は、観る者の心を掻き立て、興奮と熱狂を巻き起こすマジックをもたらすものです。

中国の人権問題や「偽装」があったとしても、このようなアスリートたちの情熱の価値を下げるものではない。オリンピック大会は、主催国政府のみでなく、このようなアスリートや観客、テレビ等を通じて応援する世界中に人々すべてによって実現するものです。

中国の人権問題はそれとして批判されるべきですが、北京オリンピックの評価はそれとは区別して考える向きもあります。むしろ、大会直前の5月に起きた四川大地震の被災地の復旧・復興の負担が重くのしかかる中、最大規模のスポーツイベントを実現した中国政府の努力を評価する雰囲気もありました。

派手な演出も、その後のオリンピックでは定番となりました。続く12年のロンドン・オリンピックでは、エリザベス女王がジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ演ずる)のエスコートで、バッキンガム宮殿から会場にヘリコプターで移動する映像の後に登場するなどの演出もありました(余談ですが、この時のロンドン五輪を仕切ったロンドン市長が、後に首相となって強硬に英国のEU離脱を進めたボリス・ジョンソンです)。このような流れもあって、中国による「偽装」は、過剰ではあったものの「演出」として忘れられてきています。

このような人々の意識が、結局のところ、中国による北京オリンピック開催という実績を評価させることとなりました。中国は、北京オリンピックにて史上初の金メダル獲得数第一位となり、スポーツ、文化、平和の祭典のイメージをかりて、その国力を誇示するとともに、中国の文化が世界に貢献してきたことをアピールすることに成功したのです。

北京2022に向けて

89年の天安門事件に対する国際的非難や冷戦の終結による共産主義陣営の崩壊は、中国を孤立させることになりました。この中で、中国は、「まずはおとなしくしている方針」をとりました。後に、「韜光養晦」(とうこうようかい)と言われるようになった方針です。直訳すれば、「外に現れる光を隠し、月のない夜に修養する」ということであり、能ある鷹のように爪を隠し、飛び立つ時を待つということです。

この方針をとったことで、中国は自由主義陣営の枠組みに迎え入れられました。北京2008開催が決まったのと同じ01年には、中国のWTOへの加盟も認められました。それによって、中国は自由な国際経済秩序の恩恵を享受しました。10%を超える経済成長を続け、経済大国となり、08年の北京オリンピックを開催したのです。その直後には、リーマンショックによる国際金融危機が世界を襲いましたが、これに対して中国は、巨額の財政出動により、影響を最小限に抑えることに成功しました。

これを受け、09年、当時の胡錦涛国家主席は「堅持韜光養晦、積極有所作為」を表明しました。これはつまり、「韜光養晦を堅持しつつも、積極的にやるべきことを少しやる」ということです。「積極的に」と言いながら「少し」と言っているところに、幾分の逡巡も見られますが、従来の「韜光養晦」からの明らかな方針転換でした。

そしてその後、13年には習近平国家主席が「奮発有為」を表明します。「奮起してなすべきことをなす」ということで、「大国外交」の宣言でした。ここから、南シナ海における強硬姿勢、国際金融秩序の改変に向けた動き、「一帯一路」建設による各国の取り込みなど、一連の動きが強化されていったのです。

このように、中国の対外政策に大きな推進力を与えた北京2008でした。はたして、北京2022はどのように演出され、それによって中国がどのような力を得るのでしょうか。さまざまな期待とともに、何とも言えない不安が心をよぎるのは、私だけでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?