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流石仏教大国日本。

日本人は「頑張る」とか「努力」といった言葉が好きだ。
当然僕も好きである。
世の中のテレビドラマや映画、アニメを含めた作品は広義「シンデレラストーリー」に則る。
初め生い立ちや境遇が不遇であるが、最終的に努力で打ち勝つ。
シンプルで引き込まれやすい。
そういった構成の作品は、現状に満足のいってない人が多いからこそ、ときに憧れ、ときに自身と重ね合わせ没入していく。

こういったサクセスストーリーに共通することは何か。
それは努力を描かないということである。
どんなスポーツアニメでもノーカットで冗長な練習風景は流さないし、どんなドラマも根回しを事細く説明しない。
端的にこういうことをした、と受け手に伝える。
つまるところ努力は面白くないのである。

これは作品世界だけではない。
むしろ現実世界で面白くないという共通認識があるからこそ、作品世界でも描かれないのであろう。
努力は面白くない。
「苦行」なのである。

苦行とは、
「自らを痛めつけることによって精神を高めようとする宗教行為」
のことである。
この苦行の身近で最たるものは何か。
勉強である。

多くの人は勉強嫌いだ。
僕も例に漏れず嫌いだった。
そしてそうした人が大人になる。
勉強=苦行、といった等式がある大人はなんと言うか。
「遊んでないで勉強しなさい。」
つまり勉強することは遊ぶことの対極に位置づけられるのである。

これはあまりに悲しいことではないか。
昔は富裕層の遊びであった勉学が、広く普及するにつれ苦行と化している。
本来であれば勉強は楽しい遊びなのである。

こうなると勉強が好きじゃない子供はどうなるのか。
勉強を苦行と思うため、辛くなかったら勉強じゃないと思い込む。
だから読書だって映画を見るのだって楽しいから勉強ではないものとして位置付ける。
教養のある人のほとんどが勉強嫌いじゃないのはこういったところに出てくる。
勉強の位置付けが根本的に違うため、他の知識を与えてくれる娯楽の位置付けも変わってくるのである。

更には勉強嫌いの子供の勉強への向かい方も変わる。
苦行であるからこそ、机に向かえば向かうほど良いとされる。
机に向かうという辛い修行を長時間耐えたということは、れっきとした苦行なのである。
その時点で学ぶという行為からはかけ離れる。
机に向かって耐えれば良いと誤解した子供は勉強時間だけが増えていく。
学びは何もない机を前にした瞑想の時間。
勉強嫌いに拍車がかかって当然である。

最後に勉強の語源を知っているであろうか。
「勉」とは、「難しさを押し切って励むこと/無理をすること」。
「強」とはそのまま「強いる/強制すること」。
つまり「勉強」とは「無理を強いる」という意である。
苦行のことですね。
勉強=苦行、というのはかなり昔からあった考えなのかもしれませんね…

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