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性自認が浸透すれば”性”性が増すのでは?

おはようございます、ノルウェー留学中のくまはんです。
ノルウェーは今、夜ですね。
白夜になりつつあるので、23時になっても薄明なんですよ。


最近、性自認の話題も下火になりつつあるような感触があります。
インスタで代名詞を公開している人もなんだか少なくなった、そんな印象があります。

その一方でなんだかちょっとだけ気づいちゃったことがありました。
まあ表題の通りなんですけどね。
それは性自認が浸透すればするほど”性”性が増すんじゃないのか?ということです。
この”性”性というのは男性性であったり女性性のことで、もっと簡単に言えば、性自認が浸透すればするほど、男らしさ/女らしさが意識されるのではないのかな、ということです。

面白いですよね。
性別が男性と女性の二通りではなくなると、より男らしさ/女らしさが意識される。
少し逆説的な気もしますが。

それでもきっとそうなっていく気がするんです。
僕の初めてのnoteにも綴ったんですが、人間って性別を32種類に分けられると言われてます。もちろん諸説ありますが。
生まれた際の身体的性別、現在の身体的性別、自認する精神的性別、服装などで表現する性別、そして好きになる性別。
それぞれの項目が男女の二種類があり、二の五乗で32種類っていう寸法です。

性別が肉体的な性器による決定ではなくなったら、それぞれの項目における”男女”とはどう決定されるのか。
そこで重要になってくるのがこの男らしさ/女らしさなんですよね。

もっと噛み砕きましょう。
「私は自分を女性だと自認する。」と僕が言ったとします。
このとき、僕の言った「女性」とはなんでしょうか。
少なくともそれは「女性器を持つ人間」ではないはずです。
スカートを履きたいと思うから?でも女装と女性は違う。
髪を長くしたい?ロン毛の男性もいるしな。
花が好きだから?男でも好きな人はいるからな。
僕が女性と自認するということは、自分の中に”女らしさ”が明確にあると判断したのでしょう。

現状、この”女らしさ”というものは極めて輪郭の無い、靄のような概念です。
スカートを履きたいという性でも、花を愛でる性でも、髪の長い性でもない。
僕らは上手く言葉に表現できはしないけれど、この”女らしさ”を感じ取れる。

これは男らしさについても同様です。
上手く言葉にできないけれど、男ってこういうモノ、という靄のような概念がある。

もし仮に性自認が今よりもっと浸透すれば、この男らしさ/女らしさという靄はより濃くなる。
濃くなることで輪郭が掴めればいいが、濃い靄は見えるだけで靄であることに変わりはない。

こう考えていると段々と面白くなってきます。
性的マイノリティは、マジョリティである男女という二つの性別に大きく依存しているんですよね。
性自認というものが浸透すればするほど、男女という概念がよく分からなくなる。
男女という概念が不安定になると「心は女」という主張も同時に崩壊するんです。

まあだから難しいんでしょうね。
性別の話って。
言葉にすることはできないけれど、確かに男だ・女だと断定できる何かを感じ取れる。
同時にそれが流動的で不安定だからこそ悩むんだろうなと。

と着地が難しい話になってしまいましたが最後に多様性について。
真の多様性って「無関心」だと僕は考えています。
隣にいる人が男性だろうが女性だろうが、日本人だろうがなんだろうがどうでもいい。
きっと性別の多様性が目指している先はどんな人の性別も無関心である、という所なんだろうな。
というのを最後として締めくくりたいと思います。
長々とお付き合いいただきありがとうございました!


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