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性自認の強要

さて、先ほど「定義づける文化」という文章を書いたが、この性自認で僕が密かに恐怖を覚えていることがある。
それはタイトルにあるように「性自認の強要」である。
多くの人の理解が進めば進むほど、誰しもが一度は自身の性自認を気軽に考えることができてしまう。
これの何が怖いのか。

この恐怖感はネットの病気診断に通ずるものがある。
つまり自分に当てはまる、都合の良いものを切り取って「自分は〇〇である」と自称できてしまう。
さらに厄介なことに、性自認は病気と異なり医者なしに診断できる。
自分で自分を診断することはさしたる問題ではない。
ここで重要視したいのは「強要」である。

最も恐れているのは、普段周りにいる友人、親から「自分の性自認ちゃんと考えた?」と言われることである。
人は不幸の称号を欲する。
前提が不幸であれば、ときには自分を守る盾として使え、ときには自らの評価を倍増させる帆となる。
〇〇だから、と〇〇なのに、の使い分けである。
そして性自認において、人はマイノリティを欲する。
自分は特別であり、他とは異なる優越感に浸れるからである。
こうして優越感に浸った人々は、「私は身体的には男性。でも性自認は男性のときも女性のときもあって、基本男装だけど女装をしたいと思うことはある。だから基本的にストレートだと思って欲しいけど、また変わったときは言うね。代名詞は当面はhe/hisで大丈夫。」なんてことを言い出す。
そして次には、「えまだ性自認について考えてないの?ストレートの男性だと思う?でもあなた時折女っぽい言動取るじゃない。可愛い男も抱けるとか言ってたでしょ。絶対あなたもストレートじゃないよ。」と啓蒙モード(強要モード)に入る。

友人であればまだよい。
しかしこれが親であれば…
教育とは洗脳である。
幼少期から性自認の“英才教育”を施され、自分は特別だと教えこまされた将来を思うとゾッとする。
確かに現代の生活に思い悩み、自分がこういう性別でこういう人たちがいると知り、励まし合う仲間ができるのであれば幸いだ。
しかしこのあやふやでアイデンティティ喪失にも繋がりかねない世界に、無知で無防備に突っ込んでいく人々は少なからずいると思う。
マイノリティを受け入れるといえば聞こえはいいが、これは同時にスタンダードを崩し、必要以上に思い悩ませ、社会としても機能を失わせかねないものなのである。

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