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親って厄介

親って厄介だ。
死ぬまで自分は親の子供だ。
当たり前の関係性を言ってるんじゃない。
死ぬまで自分は親にとっての「保護対象」でしかないってこと。
さらにたちが悪いのは、そういったお節介は単なる善意によるものってところ。
(たちが悪くないことの方が多いのはわかってるんだけどね。)

「大人になったのはいつか」と聞かれたら、自分はこう答えるようにしてる。
「自分の親を子供っぽいなって思えた瞬間」
親を馬鹿にしてる意味ではない。
子供のころって親は絶対的な存在だった。
言うことは正しいと思ってたし、例え理不尽だなって思ってもその根底の正しさが覆ることはなかった。
しかし、年齢を重ねるにつれて、アルバイトとか教授とか色々なコミュニティで”大人”と接するにつれて段々と分かってきた。
するとある時、親を親としてではなく、一人の人間として見れるタイミングが来た

ただこの変化は子供だけのものだと思う。
子供が親を一人の人間として見ようが何しようが、親が子供を一人の人間として見ることはないんじゃないかなって思う。
親にそれを要求することはきっと不可能だ。
一人の人間として尊重”しよう”とすることはできるかもしれない。
でも本当の意味で子供を一人の人間として見ることはない気がする。

親の仕事は「子供の心配をすること」
核心を突く一言のような気がする。
このnoteで伝えたいのは子供としての心の持ち方だ。

自分がした決断を否定されたと感じ、悲しんだり腹が立ったとき、冷静に一歩立ち止まって考えてほしい。
親は愛情から子供を心配する。
親が子供のことを本当の意味で否定することはない。
そこの根底は疑っちゃいけない。
そういう愛情がある”理想”の親だとして話を進める。
(”普通”と”理想”については以前書いたのを読んでもらいたいです。)

貴方がこれからしようとした決断について相談した際、背中を押されず心配されたとしよう。
その決断を肯定してくれなかった親に腹を立てたるかもしれない。
けれど、その心配は否定じゃない。
子供の決断に何か抜け落ちてないか”一緒に”石橋を叩いてくれてるんだ。
そんなこと求めてないんだけどね。

家族を一人の人間として扱う。
これは言わば家族を他人として扱うことだ。
親の周りで発生したことも文字通り「他人事」になる。
ただ、親は変わらない。
いつまでも子供は子供で他人になることはなく、いつまでも「当事者」意識がある。
非常に厄介だ。

「他人事」として無責任に肯定してほしいという子供の願いと親の「当事者」としてのお節介の熱量の差で腹が立つ。
大事なのは、親が当事者意識を持ってくれていると意識すること
それだけでこの差が幾分か埋められる。
親が本当の意味で他人事として見てくれることはないんだから。


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