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教えるとは?

ご覧頂きありがとうございます。

私は、長野県の田舎で育った。
秘密基地を作ったり、高い木に登ったり、カブトムシを捕まえに行ったり、鎖に繋がれた近所のペットの犬が逃げ出し追いかけられたり、裏道の山を通り近道を探したり、雪が降れば転ばないように歩いたり、凸凹道を走り追いかけっこをしたり、川で石切りをしたりたくさんの遊びの中からその目的を達成するために失敗を繰り返し、その度に友達と作戦を練り、1人で工夫してきた。

雪が降って転ばないように歩くために身体を鍛え、転ばないコツを教えてもらい練習してきたわけではない。
毎年毎年、雪が降りその中を歩かなければならないので自然と身についた。
雪に限らず、先程挙げた事に対して一つ一つ練習したわけではなく、その目的を達成するために自然と身につけてきた。

何かを教えるとき、一つの目的に対して目的を達成するまでの過程を教えすぎるのは良くないのではないか?

自分で導き出すからこそ、自分なりの工夫が生まれ自分なりの結論へ達する。

ある日、夏休みの宿題を答えを写しながらやっていたら怒られた。

答えを見たって自分のためにならないよ。
時間をかかっても何度も間違えてもいいんだから自分で答えを解く事に意味があるんだよ。

当時めんどくさいし、答えを見た方が早いじゃん。
と思っていたが、今となれば怒られて当然と思う。

様々な習い事が増え、SNSなどインターネットの発展により何をするにしても答えがすぐ載っている。
便利になる一方で、学ぶことの大切さを改めて考える必要がある。

子供が夏休みの宿題の答えを写していたら怒るけど、自分がわからないことはインターネットを使い答えを見る。

そんな小さな事から子供は思う。
大人はいいなー!ずるいなー。

そのような矛盾は、小さい頃たくさん感じた。

大人になり教える側に立ち大切にしていることがある。

こうしなさい。
これはこういうもの。
とは絶対に言わない。

こうしたらどうかな?
こうしてみたら自分はいいと思うけど、どう思う?

なるべくたくさん質問をして考えてもらう。
自分で考え、工夫をし結論を導き出せるような生徒を育てたい。

例え答えは1つだとしても、その過程や通り道は人の数だけ存在する。また結果が全てではなく歩んできた道のりが自分を形成する。

講師としてより成長できるように伝え方、教え方を深く掘っていきたい。


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