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0.0 はじめに

本稿より始まる一連の投稿において、今後の日本の在り方について論じたいと考えている。
私の主張は、“個人の強化を通じ、日本社会の立て直しをすべし”というものである。
日本は、バブル崩壊後、長期間の低迷に突入し、未だかつての輝きを取り戻せていないという事実は広く日本国民に共有されている認識だと考えている。
その中で、日本をどのように舵取りしていくべきかを論じたい。特に、政府という観点から議論を行う予定である。

本投稿では、本論考の主な主張を概観しておきたい。
まず、第一の主張は、経済成長第一主義からの脱却である。
これは経済成長の重要性を否定するものでは全くない。人々が、国際的にみて相対的に豊かな生活を維持するためには、国単位での成長が不可欠であることは疑いの余地がない。
しかしながら、国単位の経済成長を第一の目標として政策全体を論じることについては、大きな疑問がある。
第一に、各国にはそれぞれ適切な経済成長の度合いが存在するはずである。経済成長は人口構造に大きく規定されることは周知の事実であり、今後人口減少社会に突入する我が国においてはそもそも経済成長自体あまり見込めない状態なのである。その現状において、闇雲に経済成長のみを追い求めるのはいかがなものか。
第二に、経済成長、もとい、市場経済は民間が活動主体である。もちろん、政府がメインプレイヤーであるのは当然であるが、あくまで幇助者としての役割が主である。企業、消費者等が市場の主人公であり、成長の主体なわけで、その目標を政府が追い求めるというのは若干不可解である。政府が経済成長を第一に掲げることにより、企業や市民の当事者意識は希薄化し、国の低成長の主因を国に押し付けることにもなる。
このような観点から、安倍政権等で顕著であったように思われる、経済成長第一主義からの脱却を主張するつもりである。
また、分配路線についても否定的な観点から論じる。ただし、これについては慎重に議論を進める必要がある。私の最終的な結論についても、いわゆる分配の要素は盛り込まれることになる。
ここで否定したいのは、成長の裏返しとしての分配である。すなわち、成長の果実をどのように皆で切り分けるか、という発想を否定したいという主張である。それは経済成長第一主義と一体不可分な思想なわけで、この意味で、岸田政権の分配路線も、安倍政権の成長路線と大差ないのである。
これらの考え方に対し、私が積極的に擁護したいと考えているのが、“個人強化論”である。すなわち、①国全体の成長をまず考え、②その果実をどう分配するかを考える、という国家運営から、①個人個人の強化をまず考え、②その彼らが自在に活動することによって国が活性化する、という発想に転換するということである。
その個人強化論を議論するにあたって、最初に論じるのが、なぜ個人なのか、である。すなわち、なぜコミュニティでないのか、である。実際、コミュニティベースの政策というのは大変人気があるわけであるが、その理由とともに、その危うさを論じたい。コミュニティ支援策それ自体の意義は重々承知しながらも、コミュニティには必ず排除原理が働いてしまい、疎外される個人が生じてしまうため、コミュニティベースの政策を主軸とするのは適当でないことを述べるつもりである。
そのうえで、強化単位を個人とする意義を論じていく。しかし、それはある意味ここまでの議論からすでに自明な結論である。すなわち、国家単位での議論、コミュニティ単位での議論を否定してしまえば、最後に残るのは個人だからである。また、個人単位での強化について、消極的ではあるが強力な擁護論を行う予定である。それは、どのような単位を選択するとしても、恣意的な判断が含まれてしまうため、個人という、恣意性が低く、現代社会の最も安定的な構成要素である単位をベースに物事を考えるべきではないか、という考え方である。
最後に、個人強化論を実現する政策提言まで踏み込めればと考えている。具体的には、大社会保険構想を提示するつもりである。地域保険と職域保険の統一のみならず、年金、医療、介護、雇用という四分野の社会保険の統一論や、障害等の周辺領域との統合論等も議論する予定である。このような政策構想がなぜ個人強化論の中心となるのかが議論の枢要となるだろう。

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