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政策の在り方を異国の地から考えます。

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  • 個人強化論 ー日本のこれからを考えるー

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0.0 はじめに

本稿より始まる一連の投稿において、今後の日本の在り方について論じたいと考えている。 私の主張は、“個人の強化を通じ、日本社会の立て直しをすべし”というものである。 日本は、バブル崩壊後、長期間の低迷に突入し、未だかつての輝きを取り戻せていないという事実は広く日本国民に共有されている認識だと考えている。 その中で、日本をどのように舵取りしていくべきかを論じたい。特に、政府という観点から議論を行う予定である。 本投稿では、本論考の主な主張を概観しておきたい。 まず、第一の主張は

    • 2.0 分配という物語

      さて、本章では、経済成長に代わる物語として分配に焦点を当てる。すなわち、ここで問いたいのは、今後の日本において、成長の代わりに分配を軸として国家運営を行うことは適切かという問いである。 これは、現首相が唱える新しい資本主義において、成長の対概念として提示されているため、ここに取り上げるものである。また、近年野党側は与党に対する対立軸を打ち出すのに苦労してきた印象であるが、その中でも分配はやはりキー概念になっていたのではないかと思われる。 分配についても、それを国家が行うこと自

      • 1.5 経済成長の主体とは

        第二の批判は、経済成長の主体が何かという点に関するものである。 経済成長の主体は政府であると答える者は資本主義社会において極めて少ないであろう。あくまで経済活動は市場が舞台であり、政府は介入こそすれ、その太宗を担うとまでは決して言えない。 このことは、政府が経済活動に主要プレーヤーであることを否定するものではない。大企業と比較しても政府の規模は圧倒的であり、その決定が経済に与える影響は莫大である。 また、政府及び中央銀行がマクロ経済政策をほぼ独占的に担っているのも事実である。

        • 1.4 適切成長論

          経済成長を目標とすること自体を批判しないのであれば、何を批判するのか。 まず、経済成長の目標が漠然としており、全体として過剰で、適切な水準ではないのではないかという批判である。この批判については本論考の本筋に関わることではないのであるが、言及しておきたい。 前提として、適切成長という考え方について説明する。これは、国ごとに適切な経済成長の度合いがあるのだとする考え方である。国によって、資源の有無や人口構造等、様々な条件が異なっているなか、どの程度の成長がふさわしいのかという議

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        0.0 はじめに

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        • 個人強化論 ー日本のこれからを考えるー
          9本

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          1.3 国力とは?

          さて、こうして出来上がった国家であるが、その国家が経済成長を一つの目標として追い求めることについては、何の問題もないのである。この一見、私の議論と矛盾する主張について展開してみよう。 そもそも、国家という単位を認めてしまっており、その船頭として政府なるものがあるのであれば、政府はその舵取りにあたって、何らかの目標を設定するものであろう。もちろん、この目標を設定しそれに突き進むという思考方式そのものが特殊近代的なものなのかもしれないが、そこについては議論しない。その目標について

          1.3 国力とは?

          1.2 国家と個人 近代についての省察②

          個人と国家は、1.1で述べたとおり相互依存的な関係にあり、お互いに影響を及ぼしあいながら成長してきた。その軌跡を簡単にたどる。 といっても小難しい話をするわけではない。単に、夜警国家から福祉国家へという流れを押さえておきたいだけである。 最初期においては、近代国家は極めてミニマムなものであったし、およそ国民の福祉なるものは国家の眼中になかったと言ってよいだろう。彼らの権能は主に軍事・警察に限られ、自国民はこれらに他国や暴漢から生命を守られていたが、それ以上の保障は特段なかった

          1.2 国家と個人 近代についての省察②

          1.1 国家と個人 近代についての省察①

          国家を語るには、まずは近代を語る必要がある。国家は近代の産物なのだから当然である。 すなわち、ここからの議論の主役たちは、近代的装置の数々なのだから、まずはその性格を十二分に考える必要があるというものだろう。 それでは近代とは何なのか。残念ながら、筆者にはその深淵なる問に答えるだけの見識はない。しかしながら、近代においては(いわゆるギルドのような)中間団体が排され、その結果主権国家と個人が誕生したのである、ということを前提としてもさすがに許されるだろう。 かつては幾層にも重

          1.1 国家と個人 近代についての省察①

          1.0 経済成長という病

          さて、0.0で述べたとおり、私の第一の主張は、経済成長を主軸とした国家運営からの脱却である。ここからの一連の投稿(1.X)は、この主張を軸に展開されることとなる。 このような議論を始めるためには、まずは大上段に振りかぶって、というのが私の流儀である。 ついては、まずは一見関係のない話題、すなわち国家と個人の関係から議論を始めるつもりである。言い換えると、私の近代観について説明することになるだろう。この理解は極めて重要で、私のこれからの議論の根底をなすものとなる。 そのうえで、

          1.0 経済成長という病

          0.1 漸進主義

          さて、0.0で述べたとおり、本投稿は日本の政策形成における、“国家から個人へ”というある種のパラダイムシフトを要請するものであるが、実際のところ、そこまで過激な主張を行うものではない。原理主義的な議論も行うつもりであるが、基本的なスタンスは漸進主義的である。 ここでいうところの漸進主義には、二つの意味を込めている。 第一に、そこには国家か個人か、という二者択一の思想は存在しない。あくまで政策形成における軸を国家に置くか、個人に置くかという点について、その比重を議論するのであっ

          0.1 漸進主義