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1.1 国家と個人 近代についての省察①

国家を語るには、まずは近代を語る必要がある。国家は近代の産物なのだから当然である。
すなわち、ここからの議論の主役たちは、近代的装置の数々なのだから、まずはその性格を十二分に考える必要があるというものだろう。

それでは近代とは何なのか。残念ながら、筆者にはその深淵なる問に答えるだけの見識はない。しかしながら、近代においては(いわゆるギルドのような)中間団体が排され、その結果主権国家と個人が誕生したのである、ということを前提としてもさすがに許されるだろう。
かつては幾層にも重なり合っている中間団体に埋もれていた人々が、その衰退を以て自由な存在たる個人が生まれたのである。そしてその個人は、自らの力のみで生まれたわけではない。国家が有する警察権力、軍事力により守られることにより、言うなれば国家が自然権を保護することにより、個人は確固たるものとなったわけである。
逆に言えば、国家なくして個人などというものは存在しないのである。国家の確固たる保護がなければ、人々はただ弱いだけであったし、恐ろしい国家権力に対抗するために改めて集い、集団として抵抗したことだろう(そして実際そうした)。
一方で、個人なくして国家も存在しない。主権国家として領域内で独占的な地位を築くためには、中間団体を排す必要があり、そのためには、中間団体を要しないだけの強力な個人が必要というわけである。
すなわち、ここで強調したいのは、個人と国家が相互依存的な関係にあるということである。両者はお互いに存在しないと存在できない、近代の両輪なわけである。
さて、こうして誕生した個人と近代国家であるが、これまですくすくと成長してきた。その歴史を次の投稿で簡単に振り返りたい。

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