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負の感情との向き合い方

他人との間で起こる怒りなどの負の感情は全て、自分への敬意が足りないという認識によって生まれる

それは起きた事そのものに事の重大性が依拠しているのではなく、起きた事に責任を持っている人物の他者(自分)への配慮や態度に依存しているのだ

例えば事故的に他人から自分の服にコーヒーをこぼされてしまったとしても、とことん配慮のある態度と必要以上の謝罪を示されれば、許さない方が難しいのではないだろうか

又は、仮に交通事故で自らの身内を失った場合でも、その責任を持つ者が明らかに自分以上に深い悲しみと後悔に暮れ、誠意ある深い謝罪と償いを見せられたなら、私達はそれ以上にその者を責める意味があるのだろうか?

そして問題は、どの程度まで配慮や敬意の態度を示すかという事であるが、これはそれぞれの主観に依存しているので一定ではない。言い換えると、常に相手の主観やその人との関係、責任のバランス、事の文脈や重大さなどによって左右されるのだ

つまり何か問題が起きた時に、その問題に対する相手の認識や相手が求める敬意をコントロールする事は難しいが、逆の立場になった時に自分が相手に求めてしまう敬意への期待値はコントロールする事ができる。ここに希望があるはずである

ここで言いたいのは、期待するなということでは無い。期待は言い換えれば信じるという事であり、これは他者や自分自身と信頼関係を築くうえで無くてはならない感情である

問題は期待をし過ぎるという事である。どんな相手やどんな状況であれ、自分に一定の敬意が示され続ける事を前提にしてはいけないという事である。相手を考慮せずに期待をするから、期待外れの時に必要以上に傷つき、負の感情が生まれるのである

そして過度に期待をしないようにするには、相手を良く観察し、知る必要がある。これにはある程度の時間と自らの積極的な能動性が必要であり、誰かが勝手に教えてくれるものではない。相手の事を自ら知ろうとせずに過度に自らへの敬意を期待するのは、期待している当人の問題であると言ってよいだろう

相手を良く観察し、相手の性格や好きな事や嫌いな事、得意な事や苦手な事、自分との共通点や相違点や、相手が自分へ期待している事など、様々な点から相手を深く観察し、どの範囲まで相手に期待をして、どのラインから相手への期待を諦めるかを、感覚的に感受しながら意識的に考え、また感覚的に体に戻して慣らしていくのである

諦めるという事は往々にしてネガティブな意味として用いられるが、諦めるの語源は「明らかにする」という言葉である。つまりどこまでを諦めずに、どこからを諦めるかを「明らか」にするという事であり、本来の意味は建設的で前向きな意味なのである

こうした相手と自分をよく観察してお互いの程良いバランスを見極め、関係性を前向きに構築しようとする態度を示す事を、私達は「愛」と呼んでいるのである

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