書くということ
昨年は4月にブログ、次いでnoteを始めました。
以前から興味がありつつも手を出せずにいた、「書く」ということ。
これまでは、少し気になっても踏み込めない、結果を気にしすぎて始められない、ということがほとんどでした。そうすると、何年経っても、いつまでも心の隅にひっかかり、まだやりたいような、諦めたいような、もやもやとした気持ちになる。自分の人生を受け入れて納得する道からは遠く離れてしまう。そう感じたのです。
やってみて良ければ続ければいいし、だんだんその物事と自分との距離感、付き合い方がわかればいい、評価ばかり気にしなくていいと思うようになり、始めてみました。
その中で、青山ゆみこさんの文章添削講座も受講をさせていただきました。受講者が提出した文章に、青山さんが手書きの赤字で添削をくださる、という講座です。
添削やそれに伴うメールのやりとりを通して、「書く」ことについて考えるヒントをたくさん頂きました。
私の場合、添削では、私の文章から青山さんが感じたこと、読み解いてくださったこと、そこから考えたことが、ひたすらに書かれていました。
文章に対する良し悪しや批評は一切なく、ただ、どう伝わったか、を返してくださいました。
自分ではない他者の捉え方を、とてもとても丁寧に伝えて頂きました。
一般的な感覚では、添削が返ってきたところで“講座終了”なのだと思います。文章を添削する講座なわけですから。少なくとも私は、最初そう思っていました。
ところが、今振り返ると、実際にはここから私の「書く」ことが始まったような気さえするのです。
良し悪しや批評がないわけですから、どこをどう改編すればよいのか指示されるわけではありません。
青山さんが添削の名のもとにくださった他者の視点を参考にしながら、自分で考える必要があったのです。
青山さんは添削講座のことを「文章カウンセリング」とも記載されていました。
カウンセリングとは、他者から答えを貰い言われたとおりにするのではなく、他者を鏡にして自分で気が付いていく作業なのです。
ですから、添削が戻ってきた後は、提出する前よりも更に、推敲する、迷う、推敲する、迷う、友人に意見を聞く、迷う、推敲する・・・
その繰り返しでした。
推敲を繰り返すと、最初に書き上げたときのような気持では読めません。
なんだか推敲するたびに良いと思う書き方が変わってしまいます。伝わると思う文体が変わってしまいます。
どう書けば伝わるのか。いったい何を伝えたかったのか。
完成する日など来るのだろうか。
「書く」とはどういうことだろうか・・・。
そんなことを考える日々が続きました。
何かを経験して、感じて、それを自分の外側に書き記すということ。
単なる事実の羅列ではなく、自分の感じた主観的な世界を書き記すということ。
それはどういうことか。
人によって何を書く対象にするかは異なると思います。
でも自分にとってどうでもいいこと、重要性の低いことはきっと対象に選び辛いでしょう。
私の場合、喪失体験について書きました。それは自分にとって、とてもとても重要な出来事でした。この先、生きていくためには、なんとしてもどうにか対処せねばならない、無視することはできないものでした、逆に言えば、この経験を受け入れることで次への扉が開ける気がする、そんな出来事だったのです。
そして私は、この出来事について書き記すことで、喪失体験とそれに伴う悲しみを引き受ける道を一歩進んだように感じています。とてもとても小さな一歩であるとしても、歩みだせたように思っています。
喪ってただ苦しいだけでなく、その自分をもう一つ外側の視点から見つめ、内にある想いを少しは整理できたのだと思います。
そして、書く対象は何であれ、自分がどう感じているのかを、外側の視点から冷静に見つめ、想いを整理することこそが、書くという行為なのだろうと感じました。
言いかえれば、書くということは、自分という主体にとってその出来事は何だったのかを意味づける行為であり、それは出来事を受け入れる行為でもあり、自分の中に消化させていく行為なのではないかと思うのです。
まさに体験している最中である「今ここ」を離れて過去にしていく行為、自分の人生というストーリーに組み込む行為、そして次に向かって歩み始める行為とも言えるかもしれません。
経験して、感じて、書いて、そして歩んでいくのです。
歩みを進めれば、出来事との距離感、感じ方、捉え方も変化していきます。
私と、書く対象の関係性が、少しずつだけれど、確実に変化します。
だから、時間をおいて推敲するたびに、良いと思う文章が変わったのかもしれません。
完成する日などないのです。
その変化を恐れずに更新することが、書き続けることなのかもしれません。
支離滅裂かもしれませんが、これが“今の私”が考えていることです。
ここに書き記しておきたいと思います。時間がたてば、また変わるでしょう。その変化を受け入れて、また“書く”ことについては考えを深めて書き記せる時が来るといいなと思っています。
そして、講座に提出し、推敲を重ねて改編した文章も載せさせて頂きます。
(希望を照らし出す作家)
この文章もこれで、いったんここに置いていこうと思います。
次にこの体験について書くときは、推敲ではなく、また違った文章を1から書くのかもしれません。
そのときの私が、この体験をどう捉えているのかを。
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