希望を照らし出す作家

愛する人を喪うに等しい体験をしたことがある。


私は小さなころから、うたうことが好きだった。

理由などわからないほど好きで、うたうために生きていた。

すべてのことは、うたうための待ち時間でしかなかった。
電車に乗ることも、本を読むことも、食事をすることさえも。

うたうことは、空を自由に飛べること。
それさえあれば、ずっと生きていけると思っていた。

ところが、二十代になったころ、私はうたえなくなった。
身体的なことが理由で、私にはどうしようもなかった。
どんなにあがいても、ごまかしても、失ったものは元には戻らなかった。
失うということは、今だけの状態をさすのではない。思い描いていた未来を失うことなのだと知った。


もう、空は飛べないのだ。


そのときから、生きながら死を待つ、余生がはじまった。

心から血を流し、誰かにやさしく殺されることすら願った。あんなに好きなことなど、もう見つからないのだから。

見渡す限りの、真っ暗な夜。
その淵で、辻村深月という作家に出逢った。


辻村作品のページを開くと、そこには私と同じように、葛藤をかかえて悩み苦しむ登場人物たちがいた。

彼ら彼女らの葛藤は、ニュースや一般論では、子どもにありがちな、または青年期や世代特有の悩み、などと分類されてしまうものかもしれない。
しかし、そんなカテゴリーに安易に暴力的に押し込むことなく、辻村さんは、登場人物の個別の苦しみをとことん描いていた。その、個人の心を大切に扱う心理描写は、私の個別の苦しみにまで、そっと手をあててきた。

これなら読める、と思った。共感し、癒されるような気がしたのだ。

作品内で彼ら彼女らの思いは、社会の常識や規範と対比する形で描かれる。周囲からの視線を受けて、揺らぎ、流され、時に折れそうになるのだ。
そんな外の世界の物差しに頼っている限り、彼ら彼女らに希望は訪れない。
幸せの代名詞である結婚をしても、社会的評価の高い大学教授や女優業に就いても、希望はないのだ。

しかし、外からの評価とは切り離した、自分の内側の気持ちと向き合い、迷い、悩み、それでも投げ出さなかったその先に、見えてくるものがある。階段を一段のぼるとき、次の扉を開ける瞬間がやってくる。


外の世界に希望はないかもしれない。
しかし、最後に教えてくれるのだ。
しっかり自分自身と向き合った、彼ら彼女らの中に希望がある、と。


何度も、のめり込むように読んだ。
読むほどに、すべての言葉が、文章が美しく、不可欠なものに思えた。次のページの感動を記憶していて、その前のページから涙することさえあった。
滲んだ視界に映る白い景色は、本のページなのか、私の心の中の空白なのか、もはやわからなかった。そうして、そっと心に手をあて癒される営みを繰り返すことは、彼ら彼女らと同じように自分の内側に向き合うことだった。

そうすると、ふいに気が付くことがあった。


それは、幸せになりたい、と私自身が願っているということだ。
癒されるだけでなく、その先にも行きたい。
彼ら彼女らのように、階段を一段のぼりたい。
次の扉を開けたい。
次のページへゆきたい。

白く美しく広がるページを前にして、唐突に浮かび上がった感情だった。


私は、どうしたって、好きなことを見つけて向き合わなければ生きていけない人間だった。


きっと、ずっと、そうやって生きていきたいのだ。

自分と向き合いながら、幸せになっていきたいのだ。





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