景色の見えかた おじさん考

京王線の代田橋駅から歩いてすぐのところに、和田堀給水所という大正時代に作られた施設がある。その中に、配水池として活躍していた建物があって、その上部に塔のようなものがある。

私の実家のある最寄りの駅は、もう一つあるのだが、自分が営んでいた書店を閉じて以来、最近は代田橋駅をよく使うようになった。理由は、介護施設でのアルバイトのためだ。私は1年前からそこで週に3日ほどお手伝いしている。なぜ、どうして、どのようにそこで働いているのかについては、追って書くことがあるかもしれない。

アルバイト出勤の朝、駅へ向かう途中に、和田堀給水所がある。広大な敷地の周りは石塀で囲まれていて、黒い鉄柵がかかり、私は子どもの頃からその塔を見ては、わあ、といって、恍惚感に浸るような、呆然とするような感覚に襲われた。広大な敷地を象徴するような塔。しかし、その敷地の中に入ることは許されてはいないのだった。バリケードのようにして守られた場所は、カフカのそれではないが、とても謎めいている。これは〈城〉だ、などと私は勝手に意味づけていた。

だが、ほぼ毎日のように眺めていたその〈城〉は、そろそろ壊されてしまうらしい。理由は単純だ。老朽化である。


昨年、私は50歳になった。よく言われるような不惑の年からも10年が過ぎて、いまだに戸惑いながら生きているけれど、しかしこの数年のあいだに自身の考えかたや物の見えかたが、環境とともに大きく変化していると感じるようになった。端的に〈死〉を意識するようになり始めたのである。

2023年12月のある土曜日、私は89歳になる認知症の母を連れて笹塚駅までトボトボと散歩に出かけた。この玉川上水の散歩道はとても心地が良く、家の中で寝ているよりも、天気もいいのだから、暖かい格好をして出かけようとしたのだ。
母の歩く速度に合わせながら、歩を進めている途中、私は右手指の感覚に異変を感じた。血が通っていないようだ。力が入らなくなり、指は、完全に力なくぶらりと垂れ下がってしまった。私は怖くなった。
その前後には経験したことのないめまい、頭痛があり、そしてその冬には、手足のこわばり、首の痛み、足の感覚異常など、体中に経験したことのない不思議な痛みと〈ぎこちなさ〉を感じるようになった。
2023年からの越冬の時期は、店を閉めることになったこととも合わせて、自身の転換期であった。ああこれは先に逝くなあ。だから母をきちんとした施設なりに、なんとかして、どこかへ預けなければならない。だからもう少しがんばろう。そんなふうにしてなんとか堪えること。それが昨冬の、私の意識の中心にあった。

そんな経験を通して、視界にあるのに見えていなかったことに、だんだんと気がつくようになった。たとえばこのようなこと。
実家の2軒隣には、いつもケースワーカーの自転車が止まっていること。どうも自分と同年代ぐらいの男性で、障がいをもった方が一人で住んでいるようなのだ。そんなことは全くと言っていいほどこれまで気が付かなかった。さらにその目の前のお宅にも、毎朝デイサービスの車が止まり、夜間に訪問介護が入っていることもわかった。そして高齢で、二人でアパートに暮らしている、寅壱ズボンを履いたおじさんが、数年前からお連れの女性を介護していることも。

寅壱おじさんは、第一印象は強面で、なんとなく気が向かなかったせいもあり、単に通りすがるだけだったのだが、なんとなく寂しい様子も伺えたので、私は通りすがりに軽く会釈するようになった。するとおじさんも軽く会釈してくるようになった。しばらくして、私は彼に、こんにちは、と挨拶するようになった。おじさんも最初は会釈程度だったが、やがて「おう!」とか「出かけるの、早いね!」などとガラガラした声で返事をしてくるようになった。

ある時、突然話しかけられた。彼は「ツレがね、心臓が悪くてね、もう大変よ、デイサービスに行ってんの、いま。色々あるね、ほんといろいろあるよな、おい!」と笑顔のような、しかしお連れの方を心配するような、それでいて安堵もしているような感じで矢継ぎ早に語りかけてくるのだった。昭和の職人そのままのいでたちは、本当に毎日同じで、薄い水色のジャケットを着て、鳶職らしい寅壱ズボンをはき、無精髭をはやし、平たい帽子を斜めにかぶって、いつもポケットに手を突っ込んでいる。

4月も後半になって暖かくなり始めたころ、私は身体の調子が、少しずつではあるが、戻ってきたのを感じていた。ちょうど母のショートステイが決まり始め、心身の荷を一つ、下ろすことができたからだと思う。同時にその頃に、久しぶりに寅壱おじさんを見かけた。だがその瞬間、私は彼の様子を見て、声をかけそびれてしまった。おじさんは、以前と比べて、めっきりと歩くのが遅くなってしまったようだった。

彼は、道端で立ち止まって、ぼんやりして、遠くのほうを見つめている。二、三歩歩いては、とまり、だいぶ長く止まっては、また歩き出す、といった感じであった。帽子はかぶっていたが、髪の毛は耳下まで被さり、ボサボサで、無精髭だった髭は伸びに伸び、まるで疲れ果てたライオンのように見えた。私は声をかけることができず、そのまま追い越して駅へと向かった。なんとなく気になって振り返ると、おじさんは真っ直ぐに、しかし何を見るでもなく、まだぽつねんとして突っ立っていた。目の前には工事中の和田堀給水所がある。


この小さな町は生まれ変わる。人のいのちはどうだろうか。何か違うものに生まれ変われるだろうか。ちなみに、その給水所を壊した後には、スポーツもできるような開かれた場所になるらしい。

広大な敷地ではたらくクレーンカーが、今日も空の高いところで仕事をしている。そしてブーン、ブーンという、大きくて空疎な音が、毎日のように鳴り響いている。


この頃に読んでいたり(読み直したり)した本など
◎平山亮『介護する息子たち』(勁草書房、2017)
◎M. メルロ=ポンティ「眼と精神」『眼と精神』(みすず書房、1966)
◎野口晴哉『整体入門』(ちくま文庫、2002)



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