認知症ー「いま、ここ」で生きている人

今日8月24日は母の誕生日だ。90歳を迎えた。卒寿だ。おめでとう。
グループホームに入居したのが先月の7月13日。なんとかいいところに入居ができたから、安堵している。

彼女が認知症の診断を受けてから今年で5年目。そのかん、二人暮らしの生活は少しずつ変容していった。介護を経験したことがある人なら、この容易に言葉にできない、厳しく、かつ異様な困難さをきっとわかってくれるだろう。

私は介護と仕事で、心身ともに限界だった。それがどのようなものであったかは、このnote の最初に書いたテキストでも触れた。

私はぎりぎりまで母が望む生活をしてほしいと願ったし、自身でできることをしてもらい、それをサポートするようにして暮らしてきた。それは大変であったが、私はいま、少しだけ安心もしている。

これからも月に2、3度は会いに行く予定だ。車で10分ちょっと。自転車だと25分くらいか。それほど遠くなく、近すぎることもない。

現在の医学で認知症を止めることはできない。私はしかし、認知症について多くを学ぶことができた。少しだけ誇りに思う。少なくない人が誤解しているだろうから、この件はまた別に書くことにする。

今日は近所の人が6人も参加してくれた。美味しくてそれほど高価でない懐石を食し、そのあと少しドライブした。猛烈に暑い日差しの土曜日の午後だった。少し道に迷ったが、ちょっと面白い一日になった。本人は満足していた様子だ。

5分前のことをほとんど覚えていない人との会話は、常に「いま、ここ」のみである。同時に、歳を重ねることとは、つまりは何かへ還っていく過程でもあると、私は思っている。

彼女は少しずつ、いろんなことを忘れていくだろう。もちろん私のことも。だがそれでいいのだ。お誕生日、おめでとうございました。またお会いしましょう。

[そのほか今日したこと]
・インデザインでパンフの最終の手直し、ガイドライン制作の準備。
・判型の確認も含めてなんとなく手に取った雨宮処凛編著『この国の不寛容の果てに』(大月書店、2019)をパラパラ読む。「べてるの家」の向谷地生良氏の章(雨宮氏との対談)に引き込まれる。多くを知る。ため息も。約170年前のドイツの小さな町の話は非常に興味深く読んだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?