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ぶらり埼玉(のほんの一部)の旅

今日、二つの神社に参拝してきた。

鬼鎮神社は夫が「鬼の神社があるんだって!」とワクワクしながら見つけてきたところ。実際、鬼を祀っているのは全国でも四社だけ、とアド街ック天国でも言っていた。

しかしながら(よりによって昨日の放送!の)アド街効果のおかげで、ほんと「お祭りか?」って塩梅に人がうようよしていた。川越まつりの時に川越八幡宮に人がいる感じ、と説明すれば、わかる人にはわかるかも知れない。ふだんはもっと静かなことだろう。

夫が珍しくお守りに目を輝かせていたので、金棒の形をした根付のお守りを授与していただいた。スマホケースに付けた。商売繁盛も叶えてくれる神社だそうなので、うちのバンドが更にでかくなってくれたら嬉しい。

そして勢いでなぜか、ネットで有名な入間の旧デイリーヤマザキを見に行くことに。

カーナビに任せたら、心霊スポットとして有名な笛吹峠を通らされた。

でも公衆トイレも借りたけどどうということは無かったし、ざっき曰く知り合いが夜中に仕事で通りまくっているけれど、やっぱりどうということは無いそうだ。それより、近辺に生息しているというオオムラサキが見てみたいぞ。

(似たような違う場所ならざっきの従兄が「着物の女の子とおばあちゃんが、薄暗い時間帯に林の中に入っていくのを見た」そうなので、正直そっちの方が怖い。)

そうして入間のデイリーヤマザキにたどり着いて、でも「ほう、ここが!」と車窓から眺めるだけにとどまって、なんとなく国道16号に出た。

ふいに「あ、じゃあ行ってみる?」と夫に切り出され、私が長らく行って見たかった場所・清水八幡宮に向かうことに。

清水八幡宮は、私が子どもの頃からずっと大好きだった木曾義高の終焉の地とされる神社だ。

源 義高(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の流れを汲む信濃源氏の武将。清水冠者(志水冠者)と号す。木曾義高とも。源義仲の嫡男。(中略) 寿永2年(1183年)、挙兵した父・義仲は以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃国を中心に勢力を広げ、同じ源氏の源頼朝とは独立した勢いを見せた。また頼朝と対立していた叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事により、3月には頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。義仲が11歳の嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出す事で、両者の和議が成立した。義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。—Wikipediaより

私と夫が参拝しているのを見、ご近所の方が「ふ、不審者?」と言いたげな顔をして明らかに困惑していた。よその人が参拝に来ることがきっと少ないのだろう。まあ、お父上の木曾義仲の方が圧倒的に有名だろうし、義高のお墓は別にあるものな。

ちなみに木曾義仲ゆかりの神社にも去年、参拝してきた。

鎌形八幡神社もアド街に出ていたから、きっと今日辺りは参拝客でいっぱいだったんだろうなあ。

ともかく、長年の夢が叶って嬉しかった—というか、やっと義高の最期の地に来られて、なんとなく、やっと義高にちゃんと挨拶ができた気がして、感無量だった。

あんなにのどかで晴れた空のよく似合う土地なのに、あすこで義高は殺されてしまったのか、そう思うとすべてが嘘みたいに思えてくる。

嘘だったらいい、とすら思うくらいだ。

でもきっと、あの辺のどこかで義高は殺されたに違いない。でなければどうしてあすこに、清水八幡宮が残っているというのか。

やっと逢えたと思う反面、なんだかとても寂しかったのも事実だ。

そんな、GWの一日だった。明日は仕事だ(…いや今日も午前は仕事だったんだけどね)、頑張るぞー。


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