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距離があるくらいが愛するにはきっと丁度いい

B'zとミスチルが共演したライヴのダイジェスト映像がYoutubeで公式にUPされているけれど、どうしても見るのが怖い。

昔から、ときどき生まれいずる感覚だった。一番近い表現をするならば「好きなものについて一歩踏み込むのが怖い」とか、そんな感じかなと思う。

好きすぎるから何でも知りたい、という部分も非常に強い、言い換えてしまえばだいぶ嫉妬深い性格だったはずなのだ、私は。なのに時折こうして「見たくない」「知りたくない」がふつふつと沸く。その感情の根源というか因果というかそういったものに理由を探せば、それなりに、それっぽいことも浮かび上がりそうだ。けれどまあ、単純に私にも「好きなもの」に対しての恐れがある、つまりそういうことなのだろう。

例えばなのだけれど、今って本当にSNSが発達してしまったゆえ、昔なら知りえなかったいろんなことを容易く知れる。芸能人がパパ活アプリやってたらしいよ、とか、不倫相手にアニメのコスプレをさせて性行為していたらしいよ、とか、よく晒しあげられて嗤われているでしょう?(後者はできればマジで知りたくなかった…何やっとんねん。)

そういうことで、昔ならば知らずに済んだであろうことを知ってしまって、その人について余計な「色」を感じてしまって—素直に、好きでいられなくなることが、今の世にはあまりにも多い。芸能人に限らず、なにかしらの作家さんとかもそうだ。その人の作品をいくら好きでも、その人の発言によって、作品を素直に愛せなくなってしまったりもする(…ほんと人のこと言えないから自分も気を付けなくっちゃなんだけれども)。

そういうのもあって私は、昔よりもうんと「好きなもの」に対して壁を作るようにしているというか、できるだけ距離をもって好きでいようとするようになった。好きなものについて、私の好きな部分だけを極力見ていたいのだ。そうすることで私は、好きなものに対して余計な「色」を見出さなくて済むから。

こういうのはもしかすると「本当に好きなものを壊したくはない」という感覚にも近いのかも知れないとも思う。実は自分には内なる破壊衝動があって、それを抑えていたいのかも知れない。…わからんけど。

とにかく、そんな感情がはたらいているのだろう—私は侵食する前に潮がサーッと引いていく様な塩梅で暮らしている、特にここ最近は。

B'zとミスチルが共演したライヴを見たところで両者を嫌いになってしまう何かなんて見つかるはずも無いのに、それでも踏み込むことに恐れを感じて、私はいつも通りに笑にゃんこ王国のライブ配信をつけっぱにしたりする。

ここのところ、人そのものに対しても、恐怖というかなんというかいろいろ思うところがあって、わざと壁を作る感じで関係を持つようにしている。

自分が思っている以上に、人様の人生には本当にいろいろとあって、幸せに見えている人も実はそうでもなかったり、社会的には底辺とか言われている人が逆に、刹那的な生き方であったとて、人生をとても楽しんでいたりするのだということを、こんな年齢になってやっと気づいてしまった。

親にとっては「優しい息子」であっても、嫁にとっては「DV夫」だったり、そうやって解釈のズレみたいなものが親子間でも発生していたりする。そこん家だとあくまで親にとっては「優しい息子」だから、きっと何があっても息子を擁護するのだろう。たとえ嫁さんがボッコボコに殴られても、下手をすれば「嫁が悪い」のだと置き換えたりして。

そういったことがそこいらじゅうで起きている現実に、やっと気づかされたさんじゅうろくさい。十年遅かった気がするし、二十年早く気付けていれば、私の人生はもうちょっとだけ何かが違っていたのかも知れない。

だからきっと「世の中に見えているテンプレ的な幸せというものは、案外まやかしなのかもな」、そんな風に考える様になった。

世にはびこる幸せの形に騙されて心が侵されてしまわぬよう、深淵をのぞいて深淵にこちらをのぞかれずに済むよう、だったらこちらが「必要以上のものを見ないようにする」という心がけをしていけばいいんじゃあないか—そういう考えに、私は行きついた。

人道的にアウトなことでなければ、配偶者にだって自分のすべてを曝け出す必要はないだろうし、むしろ「なんでもすべて曝け出せる関係こそ最良」なんちゅう考えは、少なくとも今の世には不向きだろう。なんせマスクだって迂闊に取っちゃあいけないのだから。

なんだか世の中荒んでいる、当たり前か。ちょこっと匿名掲示板でも見たならば、すごくどうでもいいことで荒れていたりする。何年か前だったらこんなことで荒れなかったろうし、昔は「荒らしにかまう人も荒らし!」なんてネチケット(死語ですね)もあったんだけど、今はそういう時代じゃあないらしい。

そもそもSNSが普及しすぎて、たとえば何かの番組が「ハッシュタグをつけて呟いてね!」なんてやろうものならば、「採用されること」だけがすべての人たちが群がってきたりする。否、間違った使い方じゃあ無いのだし、結果的にハッシュタグがトレンドに上がって云々で、番組の宣伝効果になったりもするから「いいこと」なのだとは思う、大概は。

けれど、実際に番組に対して愛があるかが置き去りにされている場合も多い様な気もする。「自分の投稿が採用されるかも知れない場だから」という承認欲求ばかりが暴走して—なんていう風に自分もなってしまいそうで怖かったのもあって、好きだったのに視聴しなくなった番組が、私には実際に存在する。

いろんなものとの距離の取り方というのは、今の時代にはすごく大切で、バランス感覚の要ることだな―つくづくそう感じる今日この頃だ。

熱くなると「炎上」し易い、乾いた時代なのだ、今はきっと。

だからいつも清らかな水で心をすすぐように心がけて、ひんやりと気持ちのいい心地で世の中を眺めていられるよう、私は熱源とは距離を少し置きながら生きていこう、そんな風に思う。


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