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相原求一朗展アンコールに行ってきました

川越市立美術館で催されている、相原求一朗展アンコールに行ってきました。

以下の文章はしばらく、私が以前書いた記事からの引用になります。



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さて、ちょっとここで、一人の画家についてのお話を致しましょう。彼の名は相原求一朗。大正7年に川越の商家に生まれ、やがて北海道の風景を描くようになる洋画家です。

扉を「閉ざさなかった」画家の人生

相原求一朗は前述のとおり、商家の長男という恵まれた環境に生まれました。しかし「恵まれた環境」とはあくまで外野の感想、絵の道に進みたかった求一朗は父親の逆鱗に触れ、美術学校への進学を諦め、家業を継ぐことを選びます。

やがて求一朗もまた、兵役に就くこととなりました。彼は旧満州やフィリピンでの戦いを経験します。フィリピンからの帰還途中、搭乗していた飛行機が沖縄沖に墜落し、重傷を負って漂流していたところを命からがら救出される経験すら味わいましたが、この経験が作画への憧憬を更に深めたとも言われています。

戦後は家業を再興させようと努力しますが、やはり絵の道への憧れを諦めきれなかった求一朗。日本橋で開かれていたデッサン研究会に参加し、そこで知り合った大国章夫という画家の紹介で、猪熊弦一郎に師事する運びとなります。

そこから求一朗の画家としての人生は、大きく拓かれてゆきました。

順調に見えた求一朗の画家人生でしたが、だんだんと制作に行き詰まってゆきます。そんなさなかの1961年、求一朗は北海道に写生旅行に出掛けました。そして北海道の壮美な風景に―自身の原風景とも感じる景色を見、絵画制作への糸口を見つけるのです。

以来、生涯にわたり北海道に足を運ぶこととなる求一朗。

1996年には北海道河西郡中札内村に、相原求一朗美術館が開館します。その3年後の99年、求一朗は80歳で亡くなりますが、2002年には故郷である川越に、求一朗の自作が寄贈された川越市立美術館が開館するのです。

…と、画家への夢への扉を閉ざさず、時間を掛けてその夢を叶えた相原求一朗の人生を大まかに語ってみましたが、相原求一朗美術館のある北海道の中札内村は、実は川越との姉妹友好都市盟約宣言を交わしているのです。

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(引用終わり)

さて、私は求一朗とは逆に北海道から埼玉に渡ってきた人間だ。
その点でどこか求一朗に惹かれ、この展示を楽しみにしてきた。
いつのタイミングで行こうか、お気に入りのワンピースを着ていきたいな―などと考えたりもしていたけれど、ふと夫が「スープカレーの自販機に行きたい」と言い出し、

ああここのスープカレーってマジ美味しいんだよな、店主さんも北海道→埼玉仲間なんだよな、などと考えていたら、もういっそ今日、美術館に行ってしまおう!!と、仕事終わりにそのまま普段着で向かう感じになってしまった。
行き当たりばったりなのも良い、と思う。
美術館って「特別」であってもいいし、「日常」にあったっていい場所だと思うし。

館内に入るとすぐ学芸員さんに「相原求一朗展ですか?」と案内され、とてもスムーズだった。
市立美術館に来たのは数年前の「にじいろのさかな原画展」以来なので、そういった案内がとてもありがたかった。
最後に一階の「相原求一朗記念室」も是非どうぞ、と言われて、そういえば「にじいろのさかな」の時は記念室を見ずに帰ってしまったっけ、と思い出す。
その頃は私、まだ、求一朗について全然よくわかっていなかったのだ…。

硝子張りの階段を降りる。
そんないかにも「美術館」な空間に、わくわくさせられる。
うちは父が竹久夢二を好きだった。
母も、いわさきちひろの絵が好きで、通っていた小児科に飾ってあったレプリカを眺めるのを楽しみにしていた記憶がある。
描くことにまでたどり着いた家族は私だけだったけれど、おそらく家族みんな、絵というものが好きだった—のかも知れない、今、考えてみたら。

とはいえ夫は正直、私に付き合わされて面倒だったところもあるだろう。
自分も好きなガンダムの展示には以前、確かに心躍らせていたけれど、

今日は実際「俺、何を観に行くのかわかんないまま来ちゃった」とおどけていた。
そんな夫ではあったけれど、いざ鑑賞を始めてみると、黙って求一朗の作品のひとつひとつを眺めていた。
最後に感想を訊いてみたら、夫は「どんよりした雰囲気が伝わってきた」と答えた。

そう—その通りなのだ。
求一朗の描く北海道の風景は、私の知っている「どんよりとした北海道」だった。

容赦なく降る雪に何もかも、なんなら未来まで閉ざされてしまいそうな—そういう空がそこにあった。
厳密に言えば、雪雲に覆われた空ばかりが求一朗の作品にあったわけでは無い。
ただ、求一朗の描く空は本当に、私の知っている空だった。

北海道は、爽やかな季節は本当に素晴らしい場所だ。
スキーヤーたちならば、そのパウダースノーをも愛してくれているに違いない。
ただ、私は—大雪の季節、除雪車の置いていく「お土産」が嫌だと言って、その時間に合わせて、まだしっかりと暗くて凍える早朝、雪かきに起きていく母の、その行動が非常に心を重くしたことを、よく覚えている。
「雪かき」という作業を、私はとんでもなく嫌っていた。
特に、鬱を患って体をうまく動かせなかった頃の私は「母の雪かきを手伝いもしない自分」というものに苦しめられていた。
働けずに家にいるのならば、雪かきでもしろよ—という声が、自分自身の中で響く毎日だった。

その思い出が、求一朗の絵によってまじまじと蘇ってくる。
そして、どこまでも続く「田舎の景色」。
ちょっと都会を離れればだいたい同じ景色が広がり、家々が乏しくなっていくあのさま—求一朗よ、あなたは何故、川越生まれだというのに、こんなにも上手に北海道を再現してしまえたのだ…?

今でこそ、そういった寂しい景色をも愛おしく、郷愁に寄せてしまえる私だけども、確かに自らの中に蘇った「雪を憎悪する」あの感覚に、私はやはり求一朗はすごい画家であったのだと、そう強く感じたのだ。

帰りに、図録を買った。
経年なんちゃらで1000円でいいですよという触れ込みのそれは、後から見てみたら市制施行80周年、つまり20年前に刊行されたものだった。
とはいえ随分立派な品だ。それが1000円とは、あまりにもお安くしすぎではなかろうか…。
でもこれで、いつでも求一朗の作品を眺めることができる。
大満足だ。良かった、行けて、本当に良かった。




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