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人は好きだけれどいつも誰かと繋がっているのは向いていない、私には。

いや、ほんとタイトルまんまなのだけれど、つくづくそう思う。

メンタルのぶれがすごいので、noteだって気が向かなければ開かないし、Twitterだっていいねくれた人のところにだけお邪魔したり、そんな感じ。インスタはなんか面倒で放置しっぱなし。

ちなみに、仕事柄よそ様よりも夫と一緒に過ごす時間は長いので、夫のことはもう、別格になってしまっている。あと猫も、だいぶ長い時間一緒にいる。

でも、前の前の職場の時みたいに、同年代の同僚に「今度の休みにマザー牧場行こう」とか誘われると、萎えてしまう。前の職場で鎌倉の長谷寺にお誘いされた時は楽しかったけれど。落ち着いたお姉さまがたとのお出掛けだったからかしらん。

こういうの、根底に「同級生キライ」があるからかもしれないと思う。

私の時代は特にだったのだろうか、皆と同じでないとヒソヒソと陰口を叩かれた。同じ価値観でいること=協調性、とされていた。それも、暗黙の了解で。

だからつい、そういうことに疑問を抱いてしまいがちだった私は大概、浮いてしまってそこに居場所を見つけられなかった。そういう私には辛辣な悪口を言ってもOKだというレッテルを貼られ、私は本当によく泣いていた。だから「同級生キライ」という観念が私に宿った。それは大人になっても消えてはくれなかった。

同じでなくてはならないのなら、はなからつるみたくなんて無いのだ。

せっかくの休みの日に、生活費を削ってまで、マザー牧場まで遠出なんてしたくなかった。いや、マザー牧場が悪いのでは無い。行くならば「自分が行きたい時」にするというだけ。それも、本当に行きたい相手と一緒に行けばいい。

実家に住んでいてバイト代をある程度自由に使えるとか、実家から仕送りがあるとかそういう人たちと、バイト代だけで税金から何からすべて自分一人で賄うしかない私と、価値観が異なるのなんて当然なのに。

それなのにどうして私は「行けない」と言うことに、いちいち罪悪感を抱かねばならなかったのだろう。

大人であることは、学生時代の延長ではない。家族を持ったり社会的立場を持ったりで、いつまでもいつまでも、べったりと(家族以外の)誰かと過ごすことが良しとされるものでは無いはずだ。

でも、なぜだろう、世の中はまだまだ、「誰かと仲良くしている姿」を理想像とする。ママ友関係叩きとか散々しているくせに、ね。

結局最後は自分と向き合わなきゃあいけない、何についても。過去のトラウマも、イマ抱えている問題も、将来についての展望も、全部、自分が自分と対峙して、ひとつひとつ解いていかねばならない。そういうものだ。

なのにどうして、絆とか仲間とかそういう言葉で飾り立てて、ヒトは、無理に誰かと繋がっていようとするのだろう。

そのえにしは本当に、あなたにとって大切にすべき、そしてあなたのことを大切にしてくれる、そういう糸で縁られているのだろうか?

見栄とか虚勢とかコネだ寂しさだ、そういうものによって、本来の大切な糸に、余計なゴミがごちゃごちゃと絡まってはいないだろうか?

…なーんてことをぼんやりと考えていた。

自分のやりたいことや書きたいことや作りたいものが翳んで見えなくなるくらいなら、私は、ソーシャルディスタンスを言い訳に遠巻きに眺めている私のことを、それでいいよと認めてくれる人とだけ、この糸を絡めて繋がっていたい。

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