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私は守られるお姫様でありたい

小学校一年生の秋、今なら「学習発表会」という名前なのだろうか、とにかく、初めての学芸会があった。

劇班と歌班に児童を分け、「一寸法師」「おむすびころりん」「浦島太郎」「桃太郎」を順番に全部やっちゃう、そんな演目だった。

目立ちたがりだった私は、何かの主役級の役をやろうとして、ジャンケンで負けた。そして、おむすびころりんのねずみの内の一人に決まったはずだった。

何度目かの練習の後だったと思う。一寸法師のお姫様役の子が、どうしても台詞を覚えられないらしかった。そうしていきなし、教師の判断で私と役柄をチェンジすることになった。当初決まっていた子がちゃんと納得したのかどうか、当時の私には判らないままだった。ただ、教師が教室で煙草を吸うことすら横行していたあの頃の学校という場所で、一人の少女の心にきちんと寄り添って「できるように」運んでいくスキルを持った先生は、きっと少なかったとは思う。

こうして私はお姫様になった。市女笠を被り、どこかから借りてきた華やかな着物を纏った。文章を読むのが好きだった私は、あっさり台詞を覚えてしまった。「法師よ法師、大きくなあれ!」と言いながら打ち出の小槌を振った。

まだ幼かった私の中に強烈に刻まれた「お姫様」の物語、それが一寸法師だった。姫は法師に守られた。姫とは私にとって、守られる存在だった。

最近の物語のお姫様は強い、と思う。ディズニーものとか、そうかもしれない。「お姫様」ではないヒロインも、厳密には多いのだろうけれど。それをいいとか悪いとか論ずるつもりは、私には無い。

ただ、私はいつだって「守られるお姫様」が好きだ。弱くていい、なすすべなく鬼に攫われかけたっていい。その先に地獄太夫みたいな物語が展開されるのも、地獄大夫には申し訳ないけれど、日本の悲劇らしい、独特の風情のある話だと思う。

母は、気性の荒い人だった。愛人であって妻では無い、その属性が母に「戦う」必要性を与えていたのかも知れないと思う。いつも誰かの文句を言い、そこには当たり前に父への文句もあった。父となんていつでも別れてやる、と言う割には自力で稼ぐ力の低い人だった。というか、父の援助でスナックをやっていた頃はそれなりに儲かっていたようなので「人に使われて働くことが苦手な人」だったのかも知れない。

私は、いつも世の中に不満を持って、いつも誰かを悪く言っている母に、だんだんと辟易してきた。子供の頃は、そういう母の姿こそが世間一般の母親の姿なのだと思ってきたはずだったのに。

けれどもだんだん気付いてきた。母には母の事情があって、例えば、愛人という不安定な状況で私を育てていかねばならないプレッシャーが、世の中と彼女を戦わせていたのかも知れない。それでも私は、母があまりにも刺々しい女性であることに気付いた。ある時怒りに任せ、呑んでいた焼酎を風邪っぴきの私に浴びせかけた母を見、私は母に対して諦めを持つしか無かった。多分この人からは、穏やかな日だまりの様な優しさは与えて貰えないのだと。

しかし、そんな母を見て育った私にも、当たり前にそんな気性はコピーされていて、私はヒステリックに怒る女に成長した。そうして嫌われることを、何度くり返したろう。本当は、そんな自分を持っていたくなかった。芝生で転寝する柴犬の様に、穏やかに生きていきたいはずだった。そして、王子様に守られて生きていく「お姫様」でありたかった。

少し前の時代のことだ。世の中では「姫系」というカテゴリのファッションが流行り、ロリータファッションとまではいかずとも、ピンク色のフリフリのお洋服を、渋谷や新宿や原宿なんかでたくさん買うことができた。頭に大きなリボンを着け、髪の色をうんと明るくし、薔薇柄なんかのミニのワンピを着た、つけまつげをした瞳の大きなギャルが、歌舞伎町までもを闊歩していた。

私もそういうお洋服を好んで着ていた。ピンク色は、ショッキングピンクという濃い色以外を母は好まなかった。だから子供の頃に私は、淡いピンクのお洋服を着させてもらえなかった。母の好きな黒い服ばかりを買って着せられていた。

大学に入った年のことだ、札幌の古着屋で、リズリサというブランドのスカートを見つけた。小花柄で、膝より少し上の丈をフリルで飾っている、愛らしい桃色のスカートだった。母ならば絶対に選ばない、買わせてくれない代物だと私は気付いていた。そのスカートを買った私はその日から、リズリサのお洋服が大好きになった。リズリサはそれこそ前述の「姫系」ブランドで、着ているだけで私を幸せな心地にさせた。

リズリサの店員さんは、皆「わかっている」人だった。リズリサを好きな気持ちがあれば、黒と灰色のボーダーのセーターにボーイフレンドデニムのパンツを履いてお店に行ったって、屈託ない笑顔で接客してくれた。私がおかしな男に襲われて、暴行はされなかったけれどそれでも恐怖を植え付けられて、しばらくそういう地味な格好でしか外を歩けなくなった時だって、リズリサの店員さんは私を「リズリサを好きな人」として扱ってくれた。リズリサにしては可愛げのない、カーキ色のモッズコートを15回くらいの分割で買ってしまったのだって、無理をしてまでそれを「欲しい」と思わせる気にさせてくれた、店員さんの魅力の影響も大きかった。

ロリータのブランドじゃあ、ロリータの格好をしていなければ、店員さんに冷たくあしらわれることもあったと聞く。対してリズリサは無邪気なお姫様のブランドだった。「好きならそれでいいじゃん!」「可愛ければそれでいいじゃん!」という、心が広くて強かさも秘めている、そういうブランドだった。

幸せだった。「女の子」として、「お姫様」みたいなお洋服を着ることは。

胸の小ささが遺伝で継承されているらしき母方の家系は、母と私の胸をも例外なく小さくさせた。母は「胸の大きい女はバカ!」と事あるごとに言った。今ならわかる、母もきっと貧乳をコンプレックスに思ってきたのだろう。だからあんなに巨乳を悪く言ったのだ。

母は自分と違う人のことを、徹底的に貶したい人だった。母はきっと、そうしていないと悲しかったのだと思う。母は幼い頃からけして恵まれた環境には置かれて来なかった。学校の授業は得意だったのに、作物が実る時期になると、学校を休んで農作業の手伝いをすることを両親に強いられた。きょうだいはうんと多く、私が把握しきれていない人たちもいるらしい。苗字は、祖母の以前の夫で、母の父親ではない人のものを使わざるをえなかったと聞く。その苗字を母は生涯使い続ける羽目になった。母は一度も結婚せず、ずっとずっと誰かの愛人として生きたまま、昨年七十歳を迎えたのだった。

胸について話を戻す。私は自分の胸がコンプレックスだ。「だった」では無い、今もその小ささに悩む。学生時代に散々、不細工だ何だと貶されてきた私にとって、その胸の小ささが更に容姿へのコンプレックスに拍車をかけた。思春期に悩みを多く抱えていると胸の成長を妨げる、的な話も聞いたことがある。母の「胸の大きい女はバカ!」論は、もしかしたら無意識の内に、私にインプットされてしまったのかも知れないとすら思う。だから私は胸の成長を止めてしまった…のだったら最高に嫌すぎる。

そういう容姿の悩みも、姫系のファッションに身を包み、付け睫をして太くアイラインを引けば、魔法の様に自分を守ってくれた。

菜摘ひかるさんも著書の中で似たようなことをお話しされていた覚えがあるけれど、母の化粧というものは、なんだかとてもつまらなさそうだった。母は化粧がたぶん下手だった。化粧をした母の顔は険しいものとなり、なんていうかケバかった。まだ父が生きていた頃はポーラなんかの化粧品を使っていたのに、気付くと100均のコスメばかりがひび割れたプラスチックのメイクボックスに詰まっていた。

だから私も長らく、下地もなしにファンデーションを塗って、ペンシルで雑にアイラインを引くだけの、メイクとも言えない適当なものを顔に施していた。実家を出て、少しでも可愛くなりたいと感じてからだ、きちんとメイクをし始めたのは。

可愛くなりたかった。愛される、守られるお姫様になりたかった。

そしてその気持ちは、今も変わらない。それが私の望みだ。

私はもういい加減、母とは違う、別個の人間になりたいのだ。


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