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日なたの窓に憧れて

人から優しくされると、不安になる。

…というのを告白?しておきたいと思う。

多分、裏切られたことがあるからだ。あんまりよく覚えてはいない。けれど、好きだと思って慕っていた人が、陰で私を悪く言っていた—とか、そんなようなことが記憶のどこかにあったような気がする。

私は小学校の高学年くらいから、友達なんかの顔色を窺うようになった。「仲良くしてもらっている」という前提を、自分の中に置いた。ということはその頃には既に、私は「自分には好かれる要素が無い」と思っていたところがあるのだろう。思い出したくなければ思い出さなくていいや、そう感じる。ただ過剰に人の顔色を窺って、怖がらなくていいことまで怖がっていたのだという真実だけは、大人になった私がちゃんと理解できていることだから。

しかしながら、人の顔色を窺う癖は今でも続いている。

とはいえ、ずっとずっと顔色を窺い続けるのは疲れるゆえ、私は手荒な方法で、なるべく顔色を窺わなくて済むよう仕向けたのだ。それは、人とあまり深く仲良くしないこと、だった。

それはとても心地よい。傷を負わずに済むからだ。悲しくなったり苦しくなったりすることも極端に少ない。幼き日々に傷を負ってはかさぶたが無様に剥がれ、醜い傷痕をぼっこぼこに残した自分には、痛みの少ない毎日はものすごく快適だった。

けれども、そういう日々を送っていると、ますます私は、人を好きになれなくなってゆく。

怖いからだ。誰かを好きになって、仲良くしたいと思っても、私にはその価値が無いのだと、急に心が冷えてゆく。傷つくくらいなら壁の向こうに居ろ、と、傷痕だらけの私が言う。もう新たな傷を増やさないで頂戴、と、生娘の癖にぼろ雑巾みたいな昔の私が嘆いているのだ。

だもんで必然的に、人から優しくされると不安になる。この関係をどうしていったらいいのだろう、と、どうせ私なんていつか嫌われるのに、と、怖くて仕方なくなるのだ。

私は、まっとうな生き方はして来られなかった。結婚する少し前くらいからやっと、人並みの生活に身を置けるようになった。だから余計に「人とは交われない」と思っているふしがある。私みたいな人間には、行ってはいけない場所があるのだと、そう思い込んでいる―というか、思い込みなのか真実なのかすら、未だに私にははっきりと判別できない。

けれど、誰かに優しくしてもらうと、心を砕いて頂けると、本当はすごくすごく嬉しい事だけは、それこそ「本当」なのだ。

私はきっと死ねない、私に決められた寿命が来るまで。三回くらい自殺未遂をしてきて、ICUにも入ったことがあっても、というか何度車に轢かれそうになっても回避しているし、とにかく私は半ば強制的に「死」から遠ざけられている、そんな気がする。

子宮頚がんの検査にも引っかかったけれど、確か「頸部異形成」っていうのになったはず、でも何度か検査に通っていたらどこかに消えてしまった。

どうしてこんな、人として欠けた私がこうも死ねないのか、うむむと考えたこともあったけれど、私が生まれる前に死んでしまった兄や、中学の頃に死んでしまった父が、寿命の蝋燭をどうにかこうにか細工してまできっと私を長生きさせようとしているのだと思う。でないととっくに私は、野垂れ死んですらいる気がするのだ。

だから精一杯生きて、日なたの窓に憧れるだけじゃなくて、いつかはちゃんと、日なたの窓に触れられたらいいな、そんな風に思う。


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