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美しくなくとも、

今までやったことの無いものを始めたくて入った剣道部で、持ち前の運動音痴さから同級生に悪口を言われるようになって、

(この「運動部でいじめられる」エピソードに関しては、己龍の准司さんも似たような経験をお持ちっぽくて、ちょっと嬉しかった。准司さんもだと言うのなら、そんなトラウマみたいに抱えなくていい記憶だなと思えた。)

そうして逃げるように入部した、美術部。

そこでも結局一学年上の先輩に何故か嫌われて、いろいろ面倒だったけれど、それでも「自分の中にあるもの」を表に出すという作業は、鬱屈とした高校生の私の気持ちの昇華を手伝った。

クラスでも鬱陶しく思われがちだった私は、嫌いな奴の机を窓からぶん投げてやろうと思うくらいに攻撃的な面を持っていた。

父親が亡くなってすぐに、母が「昔ずっと付き合っていた人」だというおじさんを連れてきた。その人には冷え切った家庭があって、冷え切っていたって結局、母のしていることは社会的によろしくないことだった。

とはいえ私自身がそもそも、父のお妾さんである母から生まれた。根っからの愛人気質なうちの母のことを否定すると、私の生まで否定することになる。

私は随分とぐらぐらしたまま、父の死から二週間ほどで高校受験も済ませたし、件のおじさんとも出会ったし、今となれば心も壊れて当たり前だった。よくもまあ平然を装って過ごしていたものだ。案外、あの頃が一番メンタルが強かったかもしれない。高野豆腐メンタル。

さて、そんな私は前述のとおり、高校生活がとことんうまくいかなかった。

美術部に入ったとて、かつての親友で私を部に誘ってくれたAちゃんが、恐らく美大にストレートで入れるレベルで絵が上手く、私は否応なしに彼女との差を目の当たりにさせられた。

それでも、彫刻なんかの絵画以外の分野に手を出していなかった我が部では、絵を描くほかなかった。私の絵はどこかデッサンが歪みがちで、写実的に描くのが苦手で、色合いも濁りがちで。とにかく私は、絶対に高文連では評価されない美術部員だった。

美術室からは、小樽の海が見えた。小樽の海は青かった。高校のある地区には「潮見台(しおみだい)」という名前がつけられていて、坂道を登ったところにあるうちの高校からは、冬には荒れ狂う日本海がそうして波をたたえているのが見えたのだった。

元々部員の少ない美術部で、私は時々、美術室で一人きりで絵を描いた。どうせ評価されないことは知っていて、赴任したばかりのひょうきんな顧問の先生が、そういう私の心を上手に読み取って、いいところだけを伸ばそうと巧みに褒めてくれていなければ、私は美術部すらも辞めていたかも知れない。私は、展示が終わればキャンバスの木枠から剥がすだけの価値しかない自分の絵を、それでも懸命に描いた。

スピッツのお気に入りの曲を集めたMDを備品のラジカセに突っ込んで、疲れたら窓から海をぼんやりと眺めながら、私は絵を描き続けた。時には自画像を描く途中で、その絵にナイフを突き刺して額部分を切り裂いたりもした。先生は面白がったのか「こいつやべぇ、穏便に済ませなきゃ」と思ったのか、裂いた部分に絵の裏側から鏡を貼り付けて、見た人の姿が映るようにしてみないかい?なんて案を出してくれた。その絵はそういう形で学校祭の展示に出され、たまたま見に来たクラスの男子の困惑をゲットした。

抱えすぎだったと思う、いろんなことを。もっと素直に「寂しい」とか「母にはまだ、父を弔っていてもらいたい」とか表に出せていたら、私は勉強が手につかずに数学で2点しか取れなくなるような、そんな混乱には置かれなかったような気がする。

あの頃の私は、まったく勉強ができなくなった。これでも中学では100人中3番とか5番とか、それくらいの成績を保てる少女だった。高校に入った途端に、私は一気に理解力を落とした。落第点以外を取れるのは現代文と音楽くらいで、自宅で学習することも殆どなかった。教科書を読んでも、先生の話を聞いても、何もまったく入ってこない。あれだけ私に期待を掛けていた母も、何かを察したのかうるさいことは言わなくなっていた。

中三の二月、父が亡くなった日。妾の母にはその死を告げる連絡が誰かからもたらされたきりで、私たちはお葬式にも行けない立場だった。「パパが死んだって。」という言葉だけを母は告げ、私は何となく、泣くことを躊躇われた。

父の死を、私はきちんと味わえなかった。悲しむことすらろくにできず、でもどうにか腑に落としたくって、クラスの男子の中でも割と話すほうだったコに「私ね、お父さんが死んじゃったんだけど、お母さんが正妻じゃないからお葬式に行けないんだ。」と伝えた。そんなことを言われて彼もだいぶ戸惑ったろうけど、何となく上手に、その男子は流してくれた記憶がある。それだけでも私はちょっと救われた。ありがとう、聞いてくれたAくん。

そんな私が高校に入部して、何を斬り捨てたかったのか剣道部に入って、何も斬り捨てられなくて、美術部に逃げて。

やがて私は「自分にしか作れないもの」を求めて、顧問の先生の助言から、写真を切り貼りするコラージュという技法に辿り着く。おそらくうちの美術部では歴代初、誰もやってこなかった技法だった。

新聞や雑誌から印象的な言葉を拾ってきて、写真の上に貼り付けたりもした。その中でも「何がしたいのか」という一文をどこかから見つけてきて貼り付けたことは、今でもよく覚えている。

高校三年、最後の高文連に出す作品の、とくだん目立つところに私は、「何がしたいのか」という言葉を貼り付けた。愛想笑いともとれる表情を浮かべた少年の目線を隠すかのように、私は「何がしたいのか」という言葉を、少年の顔写真に張り付けたのだ。

私はきっと、自分に訊きたかったのだと思う。もうすぐ高校を卒業し、また違う場所に向かわねばならぬ、そんな自分に。

「何がしたいのか」、私は。

寂しかった。つらかった。もっと、甘えたかった。父と母があれだけ望み、小学校から塾に通わせ、必ず合格するようにと仕向けた高校に私はちゃんと入学できたのに、もう父はいないし、母はもう違う男性に夢中になっている。私は何の為にここに居るのか。私はちゃんと両親の夢を叶えたというのに、どうして私にはもう、安らげる場所が無いのか。悲しむ場所すらろくに与えられず、これから何をしたらいいのか、もう親からは与えられず、道を見失った私は、自問自答するしかなかった。私は「何がしたいのか」、これから。

服飾とか映像の勉強とか音楽とか、そういうお金のかかることへの道は、母子家庭ゆえに閉ざされていた。だから夜学の人文学部に進むことになるのだけれど、今となればよくもまあ、私は自分を殺さずに済んだものだ。寂しくてもつらくても、私はどうにか生きようとした。幸せを見つけようと、たとえ一人きりでも生きて幸せになろうと、頑張ったんだと思う。

高文連で、私のコラージュは何の賞にもかすらなかった。それでも私は、あの時の私の作品は、本当に素晴らしかったと自負している。

「何がしたいのか」—私の作品に貼り付けられたその言葉を前に、考えさせられた人はきっと、少なからず居たことだろう。それだけでいいのだ、どんな名画を見たって良さのわからない人はいる。それよりもダイレクトにぶつけられた「何がしたいのか」という言葉によって、誰かの心をほんの少しでも動かすことができたのなら、それこそが私の、美術部生活での成果だろう。

ゴッホは美しい。
しかしきれいではない。
ピカソは美しい。
しかし、けっして、きれいではない。
—岡本太郎の言葉より

私の美術部員としての日々は、まったくもって美しいものではなかった。

けれども美術部員だった私は、傷つきやすくて攻撃的だったけれど、それでもきっと至極きれいな濁りのない魂で、キャンバスに向き合っていた。

私はそういう昔の自分を、大切に抱いて生きていきたいと思う。ありがとう、あなたのことは私がちゃんと認めるよ。よく頑張ったね、って、伝えながら。


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