見出し画像

「ゆるされたい」

「赦す」ということが、人をラクにするという。

「赦す」という言葉には、ゆるめるとか、手放して自由にするとか、そういった意味もある―っていうことを、きのう自分が書いた記事でも話したけれど、誰かを赦すことで、自分を縛っていたその人からの「呪い」を、ゆるめることができるのかも知れない、なんて思う。

勿論、赦せないことだってあるに決まっている。たとえば池袋のあの凄惨な事故のことなぞ、被害者の身内でもない私ですら、犯人を赦す気なんて毛頭ないもの。

ただ、私自身の過去については、正直もう「解放されたい」という気持ちが強い。これからは好きだった人のことだけ思い出していたいし、これからも好きな人に囲まれて幸せな人生を送りたいと思う。

だから少しずつ、ゆるめているところだ。どうせ、相手は私にしたことなんて殆ど覚えていない。下手をすれば私のこと自体、記憶から消え失せている可能性だってある。

ならば私も、その人について「ゆるめる」意味で赦したい。私にしたことを慈愛の気持ちで「何もなかったことにする」んでは無く、その人の人生をちょこっと考察した上で、ああ、あなたにもそれをするだけの理由を孕んだ「歪み」があったのかも知れないのね、という塩梅に、ほんのちょっとだけ思いを寄せてみようと思うのだ。いくら歪んでいたって、していいことと悪いことは当然あるのだけれどもね。

もうnoteではかなり何回も書いたことがあるけれど、高校時代、私に特に嫌がらせをしてくる男子がいた。ここではO君としておこう。

O君は私をターゲットにした。私はクラスで浮いていて、成績も悪く、そういうところで「いじめてOK」だと受け止めたのだろう。

地方の進学校はどこもそうなのか知らないけれど、勉強のストレスを異様に溜めている生徒が多かった気がする。いじめは、320人の生徒の中から必ず発生した。ひどいいじめでは無く、陰湿かつ軽い嫌がらせをいつまでも繰り返す感じ。教師はいちいち介入してこない。クラスで一人か二人をそれとなくターゲットにし、聴こえるように悪口を言ってみたり、やっていることは小学生レベル。けれどもそれがきっと、彼らにとってストレスの解消法になっていた。

私服通学の高校だった。ある時私のてろてろした素材のスカートが、下着の中に入り込んだままになっていたことに、私はまったく気づかなかった。パンツ(ではなく母に履かされていたおばさん用ガードルだったのだけれど…)が丸見えになっていた私を、ここぞとばかりにO君はなじった。

気持ち悪い、吐き気がする、そういうセリフを私に聴こえるようにがんがん言った。いつもはそこまで辛辣じゃない、せいぜいO君に付き合って私に嫌がらせしている程度の男子まで、ひたすら私を嘲笑した。この状況に気付いた私は、まだ一時間目も始まらない朝だったのに、すぐに早退した。電車の中でも家でも泣いた。心が潰れた、それはもうぺしゃんこに。

この記憶が、いつまでも私を苦しめてきた。

私服登校の学校ゆえに、私たちは街中では高校生かどうかの判断がつきづらい存在だった。だからこそ、O君が武勇伝的に大声で語っていた「彼女とラブホに行った」という話も、この学校のある街ではあり得ることだった。学校からも歩いて行ける距離の飲み屋街に一件、古いラブホテルがあった。親世代ならモーテルとか言っていた系の、古臭いフォントで名前が書いてあるような、昭和の遺物感の強いホテルだ。今もあるのかはちょっとわからない。O君はそこに行ったことを自慢げに話していた、誰も彼もに聴こえてしまう、狭い教室で。

今なら、高校生がそんなことをしたら大問題だろう。でも当時その街は、うちの学校について異様に寛容だった。今考えてもちょっと怖いけれど、街中での飲酒も喫煙もゆるゆる見逃されていた。大学生と見分けがつかない、がやっぱり大きな理由なのだろうか。さすがに今は違うと思いたい。

とにかく、高校生という年代もあって、性についてはどうしても逃れられないところが誰しもにあった。特に男子は、否が応でも性欲が強くなって、きっともうどうしようもない時期だったのだと思う。

こないだ同じクラスの彼氏と「した」という話をしていた女の子が、数か月後には他の誰かのものになっている、そういう話がいくらでも転がっていた。私はそれが気持ち悪かった。猿かよ、と思った(お猿さんごめんなさい)。

自分が抱いた女の子が、自分を貫いた男の子が、平気な顔をして別の相手とまた関係を築いている―そういう狭すぎる世界で皆が生きていることが、私には気持ち悪くてしょうがなかった。自分のからだというのは、そんな乱雑に扱っていいものなのだろうか。まして、自分と「する」相手は、別のあのコのからだの感触を知っている―そういうことに、嫉妬とか感じないの?と私には不思議でしょうがなかった。彼らは私にとって心から、別次元のイキモノだった。

そういう「誰とでもやる」人たちから、私は気持ち悪がられた。私の下着を見、それは吐き気を催すものであっても、性欲を掻き立てるものでは無い―そう判断されたのが、私には屈辱だった。

今思えば、私こそ彼らを猿扱いして気持ち悪がっていたのだから、そんな輩にどう思われようとかまわないはずなのに、当時の私の心を、それはぺしゃんこに潰してしまった。

自分には、女としての価値が無い―そう、すっかり刻み込まれてしまったのだ、私の、からだに、心に。

念の為断っておくと、私にはけして、O君を好きだったとか、そういう気持ちは無い。腹が立ちすぎて何度も、私はO君の外履きをごみ箱に棄ててやった。いわば、O君も私にいじめられていたのだ。私は徹底的にO君の外履きを燃えるごみ扱いした。昼休みなんかにこっそり下駄箱に行っては、そこに設置されているプラスチックのごみ箱に彼の靴をばっさり棄てた。すぐに見つかる場所に棄てていることだけが私に残された良心だった。でも、もし用務員さんがそれを片してしまってO君が困ったって、私にはどうでも良かった。

それでも、私の心は潰れた。不意打ちで見られてしまった自分の下着に、けして見せたくて見せたのではないものに、同世代から勝手に価値判断をされてしまったことが、私を大きく傷つけた。

そう、あれからえらく時間が経ってしまったというのにも関わらず、その時のことを鮮明に覚えてしまっている程に。

もしも、O君を赦そうとするならば、私はどうしたらいいのだろう。

そんな風にまで思えたのはきっと、私が少しずつ、様々な過去から解放されてきているからなのだろうと思う。

そして何よりも、私は、もうラクになりたいのだ。縛られていたくないのだ。自由になりたいのだ。

私が誰よりも赦さなければならないのは、きっと、自分自身のことなのだと思う。

あの、狭い教室と、全校生徒で千人ほどを詰め込んだ、箱の様な学校のことを思う。

充満したストレスは、何人もの生徒を中退させた。たぶん検索すれば出てくるけれど、妙な理由で校舎の一部に放火して、捕まった生徒もいた。あとバカな先生が札幌で置き引きして逮捕されたりもしたっけ。

さっきも書いたけれど、私はO君のストレス解消の矛先になったのだろう。

中学では成績もトップクラスだったろうO君も、高校では同じレベルの生徒が集まるのだから当然、その中に沈んで目立たなくなる。彼は田舎の中学校の上位カーストからいきなり「平民」にされたワケだ。

O君よりもばつぐんに容姿の整った、しかも性格も良くて頭もいい同級生も、それなりに居た。

(そんな同級生についても記事にしたことがあったので、良かったらどうぞ。)

だからこそO君は、自分のアイデンティティを保つことに必死だったのかも知れない。この高校では誰にも勝てない、だから弱者だと勝手に決めつけた私をいじめて、私には勝とうとした。まあ、そんな私に彼は長らく靴を棄てられ続けたワケだけれども、そこが彼の「誰にも勝てない」理由のひとつだろう。

そう考えると、彼のしたことは、単に私を貶す為の、語彙力に欠けた悪口でしか無かったんじゃあないだろうか。

彼はきっと、私に勝つ為に手段を選ばなかったのだ。おそらく「お前のかーちゃん、でべそ!」とかそんな勢いで、私の下着を気持ち悪がった。反射的に出た言葉だった。…だんだん、そんな気がしてきたぞ。O君ってもしや、現代文の成績、悪かったんじゃあなかろうか。

ただ、私の潰れた心は、たぶんまだ癒えない。やっとここまでO君についての過去を「ゆるめ」られただけだ。回復にはまだ時間がかかる。しょうがない。

でも、私はまた、こうしてゆるめることができた。からだの、心の一部がまた一箇所、自由になった。それを感じられる。私は、私を自由にしてあげられる。私はもう、そのことを解っている。

何にも縛られていない私は、いったいどんな姿をしているのだろう。

それを知りたいから私は「赦す」ことを続けたいと思う。私自身を、赦す為に。

頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。